見ているだけはやめる。
そう決めたのはあの夜。
彼との距離を縮めて、傍に行く。
そう誓ったのもあの夜。
あの夜。
血に染まった彼の姿は、恐怖そのものだった。
失いたくない。失ったら生きていけない。
それほどまでに囚われていた心。
そして、触れることが叶った彼のぬくもり。
失わないために、自分ができることは何でもする。
たとえそれが、今まで生きてきた世界と決別することになっても。
皮肉にも一歩を踏み出させてくれたのは、あの夜、彼を傷つけた者。
撃たれた衝撃は凄まじかったが、取り乱し半狂乱になったヤツを見れて十分おつりはきた。
当然のように正義を振りかざして奢るからだ。
人を傷つける痛みを思い知れ。
昏い喜びでいっぱいで。
どうしたって偶発的な事故でしかありえなかったから、彼が気にするなんて思ってなかった。
あの時。
呆然と佇む姿を見ていたのに。
立ち尽くして、逃げることも忘れて。
そのままだと捕まってしまう――――いつまでも立ち去らない気配に、"ハヤクイケ"と。そう急かしたのは紛れもなく自分だったのに。
彼は何を求めなくても、望まなくても。
何も感じないわけでも、思わないわけでもない。
他人の感情に敏感で、思慮深く、情が深いヒト。
求めるものが何もない凍てついた心のままの冷たい人間だったら、こんな自分が惹かれるはずがなかった。
それがわかっていたのに。
彼の涙を見るまで、どれだけ苦しめていたのか、気が付きもしなかった。
April Fools' serenade 4
好き。
心が躍るはずの言葉。
飾らずに綴られる彼の気持ち。
降って湧いた幸運のはずなのに。
哀しかった。
すべて、過去形だったから。
終わったことだと語られて。
彼の心に少しは入り込むことができたという喜びなどない。
哀しかった。
かつて、自分を見てくれていたというのに何も気付かなかったことが。
覆水は元に戻らない。
離れてしまった心は、さらに離れていくだけなのだ。
どうしてこんなことを突然、彼は告げる気になったのか。
今日の、この日に。この時間に。
それは、きっと心の区切り。
振り向く必要のない過去の出来事に成り下がったせい。
もう、この場にいることはできなかった。
すぐ目の前に彼がいるのに。
どこまでもどこまでも遠いヒトだと、否応無く教えられるだけだから。
雲に隠されていく、月。
これ以上彼を見るなと、言われているようで。
この闇にまぎれて帰ろうとした時。
今まで静かだった彼の口調が、気配が、突如乱れた。
低く抑えた声に滲む苦痛、後悔、懺悔。
そして、嘆き。
「…ゴメンな…」
違う。
こんなことを言わせるために、あんなことをしたんじゃない。
彼を傷つけるどんな小さな棘だって、許せなかったからだ。
そう、彼のためじゃない。彼のせいじゃない。自分自身のためにしたんだ。
「…すまなかった…」
痛みを耐えるように閉ざされた、瞳。
そこから零れ落ちる、透明の雫。
再び顔を覗かせた月の光に照らされて、美しく煌く。
彼の心の純粋さのような、キレイな涙。
オレのために流されている。
ここまで追い込んだのに、苦しめたのに。
それなのに、嬉しいだなんて。そんなこと思ってはいけないのに、心を止めることはできない。
どうしようもなく、彼が愛しい。
触れたい。
手を、伸ばす。
あの時のように、退けられないことを祈りながら。
一瞬身を竦ませたから、跳ね除けられると思ったけれど。涙に、頬に、触れるのをそのまま受け入れてくれる。
指先から染みてくる、欲しかったぬくもり。
あたたかな涙が指先を濡らす。
ああ…そうなんだ。だから、過去形だったのか。
彼が考えたこと、思ったことが見えてくる。感じられる。
上げられる瞼。
大好きなやわらかい眼差しが顕れる。
触れている手を見て。そこから視線は辿ってきて。
目があった。
頼りなげに揺れて、何かを見極めるようにじっと見つめてくる。
長くてキレイな指をもつ手が、重なってくる。
握り締めてくれる。
このまま離さないで。
このまま、オレの願いをきいてくれ。
「オレは、どんな未来が待ち受けていようと、オマエと運命を共にしたい」
遠くから見ているだけなんて、もうできない。
掴んだぬくもりを、もう絶対に手放したくない。
それから、想いを交わしたい。
「オマエが、好きだ」
end
02.04.10
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