遠くから見つめることしか許されない。


だから、彼のあたたかさを知ったのはあの時が最初。
血に汚れることも構わずに伸ばされた手。

体の奥底から湧き出てくる彼が好きだという想い。止めることができない想い。
愛するひとが自ら触れてきてくれているのだ。
そのまま抱きしめてしまいたい。二度と離したくはない。

膨れ上がる欲求と、同じ速度で増していった絶望。

絶対に手に入れることの叶わないひとだからこそ、あまりにも残酷な現実。
彼が心配気に瞳を揺らすことさえ、苦しくて痛くて身を切られるほど辛くて。
ろくに礼を言うことも出来ずに、その場から逃げることでしか自分を守れなかった。


知ってはいけなかった、ぬくもり。
求めて求めて、欲望を抑えきることができなくなる時がいつかくる。
だから、必死で逃げたのに。
難解な予告状で彼を呼び出す愚行に走ったのも、あのぬくもりが忘れられなかったせい。



そして。
再び伸ばされた、手。

心に焼きついている、ぬくもり。
欲しいと願って、分不相応な願いだと殺しつづけて。
幻だと疑わなかった彼は、間違いなく現実であると。教えてくれて。

前のように、止めることはできなかった。
頬に触れる白い手を、しっかりと握り締めて。

「オマエが、好きだ」

そう彼が言ってくれた瞬間、もう何も考えることはできなかった。
自分が何者であるかなんて、そして彼は相対する者であることも。想いの全てをこの場に置いていこうと決めたことさえ吹っ飛んで。

ただ、力の限り彼を抱きしめてしまった。












birthday etude  













目が覚めたら、彼が隣りに寝ていた。
見覚えのない天井に、ホテルの一室であることを思い出したが、彼を抱きしめた後の記憶はあやふやだった。
確か、落ち着いてゆっくり話をしようと。
そんな風に言った彼が部屋を借りてきて、促されるままに色々なことを話したような気がする。

体を起こそうとして、けれど彼の手がシャツの胸元をしっかりと握り締めていたために諦め、すぐ間近にある白い面に見入った。
安らかな寝息。穏やかな寝顔。
安心しきって無防備な姿を晒している。
嬉しかった。
全身が喜びに震えて、手に入れることが叶わないと絶望したぬくもりに酔いしれた。
もっとよく見たくて少しだけ体を離すと、擦りよってきて。
感奮して、知らず知らずに彼へと手を伸ばした。
しかし。
触れたくてたまらないのに、後ちょっとで彼のぬくもりに届くというのに。寸でのところで、手は動かなかった。

そんな汚れきった手で、彼に触れることが許されると思っているのか。

いつだって現実は厳しく容赦ないものだ。
それがわかっていて、犯罪に手を染めたのは他ならぬ自分自身。
光に満ちた世界に背を向けて、闇に生きることを選んで。それと引き換えにして失うものがあることも十分承知していた。
それなのに、今さら何を求めようとしているのか。

恐ろしくなった。
己の業に彼を巻き込むことが。
犯罪者に関わったせいで、すでに大きな代償を支払わせてもいる。

倒れていく、細い肢体。
血溜りに倒れ伏す、姿。

自分のために、彼に血を流させる。
そんなことは許されない。
そんな彼に甘んじようとする自分の心が何より許せないし、何より恐ろしかった。








短い文を打ち込んで、送信する。
「ふぅ…」
無意識のうちにため息をついて、それに気がついてもう一度息をつく。
最近はなんとか生活のペースを元の通りまで戻しつつあるが、調子は一向にあがらない。
仕事を控えているのに、集中できない状況では命取りになりかねないのに。

「おい、黒羽。連休の予定はどうなってるんだ?」
「みんなでどっか行こうって言ってんだけどさ。お前、どうする?」
「悪い…どうなるかわからねぇから、オレは外しといてくれ」
「なんか付き合い悪くなったよな」
苦笑しながら、悪いなと再び告げる。
仕事の準備に追われることもあるが、そんな気分になれないのが大きな理由。気晴らしにも成り得ない付き合いは、疲労だけがたまるから。
「どうしてダメなの?青子、トロピカルランドに行きたかったのに」
「連れて行ってもらえばいいじゃないか」
「快斗も一緒じゃなきゃ面白くないんだもん。なんか仲間はずれしているみたいだし。この前の埋め合わせだってまだしてもらってないんだよ」
「それはしょうがねぇんじゃねーの?だって黒羽、カノジョできたんだろ?」
「なにそれ?マジか?!」
「うそ?!ホントに?!」
ぷぅと頬を膨らませる幼馴染にも苦笑で返していたときに、誰の口からかの言葉にギクリとする。
「もしかして、この間の美人か?」
「えー?違うだろ。そんな色っぽい関係には見えなかったぜ」
「本当に快斗に恋人ができたの?本当に?!」
「だって、携帯なんて滅多に使わないのにこのごろは頻繁にメールしてんじゃん」
「そういえばそうだな」
だんだん喧騒が煩わしくなって、誰の目にもとまらないようにそっと教室を後にした。
向かったのは、人気のない静かな屋上。
「なんか…逃げてばかりだな…」
ポケットから携帯を取り出して、さっき届いたメールを開く。

『久しぶりに会えないかな?』

いつもは『おはよう』とか『元気か?』とか『しばらく事件で忙しい』といったたわいのない挨拶ばかり。
けれど今回は大型連休のせいだろう、いつもと違う内容だった。
会いたいと言ってもらっているのだ、もちろん嬉しい。嬉しいが、洋々と会いにいくことなどできない。
大体、どんな顔で会えばいいというのか。
あの朝、彼が目を覚ます前に部屋を出て行ったのに。

正気に戻って、物事を冷静に判断できるようになるにつれ、彼と一緒にいることはできないと思った。
手の届かないひとだから想うだけで満たされていた頃とは違う。
正面から彼と向き合って、感情を交わし合わなければいけない。感情だけでなく、重なってしまった現在と未来についても。
その覚悟が自分にはない。
だから、逃げ出したのだ。
それでも、彼を傷つけないように些かでも配慮はできた。こんなにまで心を開いてくれているのに、悲しませることはしたくなかったから。先に帰る旨と、携帯のナンバーを記したメモを残しただけだったけれど。


「……逢いたい」

正直な気持ち。
だけど、会えない。

自分が歩く道は、漆黒の闇。
血と暴力に溢れた、底なしの沼。

本当は、逃げ出したときに見限られても良かった。
情けないヤツだと、怒って告白を取り消してくれても。
それなのに、彼はどこまでもやさしくて。
あの日の夜から、メールをくれた。


『おやすみ』


たった一言。
細い細い糸で繋がっている関係。
それを切れないように、確りと紡いでくれている彼のコトバ。
涙が頬を伝った。


わかっている。
自分から、彼を手放すことはできないのだ。
だから、深みに嵌る前に彼のほうから抜け出してもらいたかった。
今ならまだ間に合いそうな気がするから。

返事だって、素っ気無く返すだけにしている。
あれから一度だって逢おうとしないのも、愛想つかされてもいいと思っているから。
始終、マナーボタンをおして電話に出ないのだってそう。

それでも彼は、日に一度はメールをくれる。
短いコトバのなかには、あたたかさが滲んでいる。

「もし……オレの心の裡を知っても…それでも変わらずにいてくれるのか……?」

いつまでも逃げ回っていることなどできないけれど。
気持ちは矛盾だらけで、一体どうしたいのか自分でもわからなかった。


















「ふぅ…」
ため息をついて、じっと眺めていた携帯をポケットにしまう。それを前を歩く二人が聞きつけた。
「なによ、そのため息!」
「そうよ、失礼じゃない?こんな美人を連れて歩いているくせに!」
「最近付き合いが悪いから、埋め合わせの機会を作ってあげたのに」
「まったくよ。もうケガだって治ってるんだから今日という今日は容赦しないんだからね!」
幼馴染とその友人の剣幕には、素直に頷くのが事を荒立てなくていい方法。
それに、本当は彼女たちが気遣って気分転換をさせようと強引な手段に訴えただけとわかっている。


そんなに簡単に想いが通じ合うなんて思ってはいない。
彼の告白が何を意味していたのかわかっていたからこそ、余計に。
同じ探偵を罠にかけて、大怪我を負ったことに後悔などないし、同じことがあれば再び同じ事をする確信すらある。
後悔したのは、彼をあんなにまで追い詰めてしまったことだ。
つもりはなかった…と言って、許されるワケがなくて。想ってくれていたのを知らなかった…それが言い訳になるはずもないけれど。
手段を誤ったのは確か。彼が関わりあっていないところでするべきだったのだ。

済んだことを悔いても仕方ないが、失ってしまっていたかもしれないと思うとどうしようもなくなる。
遠く遠くに離れていこうとしていた彼を、かろうじて掴まえることが出来た。しかし、いつまた離れていってしまうかわからないから。

好きだ、と言った。
そして、彼は抱きしめてきた。

でも、返事ではなかった。
気持ちが現実に追いつかなくて、混乱していたせい。
だから目が覚めたとき、彼はいなかった。

きっと、予感はあった。
彼のシャツをしっかりと握り締めて眠ったくらいだから。どこにも行かないように、離れていかないように。
案の定ベッドの半分はカラで、ぬくもりの欠片も残っていなかった。
手にしていたシャツはそのままだったが、彼の抜け殻でしかない。

たった一晩だけの、夢だったのか。
そうしたいと、彼は願ったのか。

諦められるはずはなかったが、彼を追いかける気力も勇気も湧き上がってこなくて。緩慢な動作でのろのろと起き上がったときに、視界に入った紙切れ。

『用があるので先に帰ります』

取ってつけた言い訳でも、心底ホッとした。数字の羅列が携帯のナンバーだとわかって、安堵は喜びへと変化した。
まだ、彼は自分のことを考えてくれている。離れていこうとしているのではない。
今はそれだけで十分だった。

『おはよう』とか『おやすみ』とか。『しばらく忙しい』とか『事件を持ち込まれた』とか。
たわいもなく下らない内容でも、彼と繋がっていられる一時は大切。
律儀に一回一回返信してくれて、それら全部を消去できないでいる。


慌ててはいけない。
今はじっと待っているべきなのだ。
彼の混乱が立ち直るまで。気持ちの整理がつくまでは。
告白に滲んでいたのは、犯罪者という十字架の重さ。
ホテルの部屋で、怪盗になった経緯や決意、信念を教えてもらって。一層、穢れない彼の心を知った。
だから、真実を手に入れられる手段が唯一、犯罪に手を染めることしかなくとも迷いもなく飛び込んで。犯罪者ということを敏感なまでに、認識している。
許されるとも許されたいとも思っておらず。独りで生きることを当然だと受け止めている。

そんな彼だから。
同じ想いだとわかっても、安易に手を取り合うようなことはしない。
悩んで、苦しんで。応えを見出そうとしている。
だから、今はこの状態でいるべき。

頭では理解していても、心はいつも彼を求める。
手が届いてぬくもりを手に入れて、寄り添って眠るくらい心を許してもらっていると知ったからこそ。
彼に逢いたくて堪らない。
そして、我慢ができなくなった。


『悪いけど、今忙しいから』


欲しい返事ではなく、自分でも激しく落ち込んだのがわかる。
それでも、そのメールを削除することはやはりできなくて。つい、未練たらしく見直してしまう。
いつまで、この状況が続くのだろうか。
逢いたくて逢いたくて、どうにかなってしまいそうだ。



「どうしたのよ?」
心配そうな幼馴染の顔に、我に返って首を左右に振る。
「なんでもない、ごめん。ちょっとぼんやりしてた」
「そう…ならいいけど」
彼を失ってしまうかもしれない不安に消沈しているせいで、どれだけ迷惑をかけているか。先々月の大怪我をしたのだって、ひどく心を痛めさせたから、今ぐらいは何の気苦労もないようにしてやらないといけない。
彼女たちの好きそうな、キレイな色がそろった雑貨屋。
手にとって、楽しそうに話ながら品物を選んでいる。
「ね、新一はどれが好き?」
「自分が好きなのを選べばいいだろ。買ってやるからさ」
お詫びとばかりにそう言うと、普段なら必要のないものまで買おうとするくせに、幼馴染たちはムッとした表情で睨んできた。
「ちょっと新一くん。ヒトの話まるで聞いてないじゃない!」
「そうよ!新一のプレゼントを選んでいるのに!」
「………え?」
「やーだ、蘭。この人、また自分の誕生日を忘れているわよ」
「まったく、しょうがないわね!」
「たん…じょうび……そっか。明日か」
思い当たった顔をすると、呆れたとばかりに二人して盛大なため息をつく。
「せっかく誕生日だから、今日は色々とわがままをきいてあげようって蘭と計画したのよ。まずは、"両手に花"で楽しいショッピング」
「それから、新一が好きな推理ものの映画を見るのもいいし、古書街に行って本をあさるのだって手伝っちゃうんだから」
「ありがとう……気持ちだけで嬉しいよ」
寂しくて苦しくて、冷えていた心。少しだけ、彼女たちのあたたかさに久々に元気がでてくる。
苦笑じゃなくて、ちゃんと普通に笑うことだってできた。
「や、やーだっ!!急に素直にならないでよ!」
「そうよそうよ!」
急に顔を赤らめて、二人してバシバシ肩を叩いてくる。
今度はなんなんだと目を丸めていたら。
「ね、新一。誕生日なんだから思いっきりわがまま言っちゃいなさいよ。なんでも聞いてあげるから!」
「1日早いけどね!」
「?どうして明日じゃ…?」
明日も祝日で、事件が入らない限りヒマなのは今日と同じ。
首をかしげると、したり顔で面を付き合わせてくる。
「あーら!新一くんのために1日早くしてあげたんじゃない!」
「ねぇ、せっかく気を使って、誕生日当日なんて無茶はしなかったのに!」
「…は?」
「ちゃんと知ってるんだから!新一くんに恋人ができたのくらい!」
「そうそう。不精な新一が毎日メールするんですもの。みんなにバレてるわよ!」
「そ、そんな…ちがう…っ」
恋人だなんて、まだまだそんな関係じゃない。なんでメールをすればそういうふうになるんだ。
文句を言ってもまるで耳を傾けない。
「まー照れるな照れるな。この、恋愛上手な園子さんが新一くんに知恵を授けてしんぜよう!」
「知恵?」
「そう。誕生日ってのはね、一年に一度だけ思いっきりワガママを言っても許される日なんだから。今日、オレの誕生日だから甘えさせてなんて言ったら相手だってイチコロよ」
「自分が生まれた特別な日に過ごしてくれるってことは、特別だって認めてもらっていることだからね。自分にとっても相手にとっても」
眩しいほど輝いている彼女たちは、きっとなんの躊躇もなく大好きなひとを抱きしめられるのだろう。

誕生日のプレゼントに彼女たちからもらったもの。
それは、彼に逢いに行く勇気だった。














「明後日なのにな…」
狙いは、連休中の特別展示品。だから、最終日に仕事をすることに決めたが。相変わらず集中できない頭では、自分自身にGOサインが出せずに予告状すらまだ出していない。
下調べだってきちんと済んでいるし、これを逃したら次回は一年後だからと必死で仕事に身を入れようとした。
でも、集中しようとすればするだけ、彼のことが頭から離れないのだ。

『結局は罪を犯す。この先もずっと犯しつづける。恋することは、相手を不幸にすることとわかっているくせに。彼を苦しめて地獄に落とすつもりなのか』
『もし彼が現場にきたら、今度はヤツラに命を狙われる。そんな危険に巻き込んでいいのか』

迷路の中に迷い込んだように、出口の見えない考えに囚われ。彼が欲しいと思うほど、心は悲鳴をあげる。
振り払うように博物館へと再度下見に行って、帰ってきたところで幼馴染の家の前で待ち合わせをしていたクラスメートたちと出会った。
「なんだ、黒羽。いるじゃんか」
「用があるとか言ってたのに、もう帰ってきたんだ。それなら青子たちと遊びにいけるよね?」
「そうだぜ、お前がこないと盛り上がらないしさ」
行こう行こうとせがまれて、気力が低下した状態では断りきれず押し切られようとしたとき。
ふとあげた視界の隅に、角を曲がったヒトの残像が焼きついた。
まさか、と思った。
「おい!黒羽?!どこに行くんだ?!」
「ちょっと!快斗?!」
まさか、こんなところで。
信じられなかったけど、心は正直だった。
どうしても欲しいものは、犯罪者になってでも手に入れたかった真実ではない。
欲しいのは、ただ彼だけなのだ。
最初からわかっていた答えなのに、今まで何をしていたのだろうか。








「バカだな…」
自嘲する。でも、可笑しいことなんて何一つなく、哀しかっただけ。
「ホント…バカだ」
どうして気が付かなかったのだろうか。彼に避けられていたことを。
忙しいとあったから、きっと仕事のせいだと思っていた。それなのに、友人たちと遊びに行こうとしていた彼。
情けなかった。
やはり彼は、あの時過去形で語ったように、全てを終わりにしたかったのだ。
離れていく寸でで掴むことが出来て間に合ったと、思ったけど。すでに手遅れだった。
必死に彼にしがみつこうとしていたから、哀れに思って相手をしてくれただけ。さぞ煩わしかったことだろう。
喉がヒリヒリしてくる。
目の奥が痛くなってくる。
大きく息を吸い込んで、やり過ごして。きっとひどくみっともない顔をしているだろうから、バスでは帰れないと思う。
歩いてかえるならこっちかな、と。公園を突っ切っていこうとして。

「待って!」

彼の声。こんなところでするはずがないから聞き間違い。
だけど、振り返らずにいられなかった。
「…っ」
息が詰まる。
本当に、彼だ。
逃げ出したいけど、ヘンに思われたくはない。

「どう、したんだ?なにかあったのか?」

走ってきても、息は乱れていない。さすがだなんてどうでもいいことを考えて。気を紛らわす。
「……なんでもない。ただ…ちょっとさ、顔が見たくなって…」
通りかかっただけなんて通用しない。
ちゃんと表情は取繕っているだろうか。
「だったら…なんで…?」
何もないと、首を振る。実際、用件なんてないに等しい。
「出かけようとしてたときに悪かった……………さよなら」




振り返った彼は、今にも泣き出しそうな顔をした。けど、それも一瞬で、微笑みを浮かべてくれた。瞳は哀しい光でいっぱいで、どうしてそんな表情をしているのかわからない。
事件かなにかで、酷く傷ついたのだろうか。それで逢いにきてくれたのだろうか。
顔が見たかっただけなんて、それだけのはずがないけれど。
最後の言葉を聞いて、状況を把握する。

さよなら―――別れの言葉。
彼は別れを言いにきたのだ。
やっぱり、オレの煮え切らない態度に見切りをつけたのか。犯罪者とは関わりあいたくないと思ったのか。
だけどそれなら、どうしてそんな哀しい顔をする?

「待てよ!………っ?!」

肩を掴んで、去ろうとする彼を引き戻して。再び振り返った彼の瞳から、透明の雫が零れ落ちた。
「な…んで…泣いてるんだ…?」
「なん…でも、ない…なんでも…ないんだ…っ」
泣かせたのはオレだよな。ここには、オレしかいないんだから。
でも、どうして?何を泣かないといけない―――――ああ…まさか…。


あの時、泣いたのはオレのほうだった。


見ているだけで満足して。幸せを願うだけで満たされて。
けれど、それすらも許されないことだと思い知らされ。
唯一、犯罪者であっても汚れていない領域を捨てざるを得なくなった。
容易に思い切れるわけがなく。
好きで好きで堪らないからこそ、彼への想いを捨てることは身を切られるより辛くて、痛くて。何より哀しかった。
もう、これで終わりかと思うと。好きだという気持ちは膨れていくばかりだったから。



「な…何するんだ!離せよ!」

汚れた手であろうと、そんなことは構わない。
大切なのは、今このときだ。
愛しいひとを哀しませているのに、どうして先のことで怯えないといけないんだ。

「ゴメンな…オレが、どうしていいかわからなかったから。だから、こんなに傷つけてしまって。ゴメン…っ!」

腕のなかで暴れていた彼は、ぴたりと動きを止めた。
なんて、情けないんだろう。自分だけが苦しんで、つらいと思って。彼の苦しみのほうが余程大きかったのに。

「わ…からない…って、なんだよ…どうせ、自分の業に巻き込むとかそんな下らないことだろう…!」
「ああ…そうだよ。でも…」
「なにがでもだよ!オレは言っただろう?!どんな未来だって、お前と運命を共にするって!何の覚悟もなく言ったとでも思っているのか!」
「…!」

ホントにどうしようもないバカだ…っ。
あの時、君の言葉の何を聞いていたのだろう。
怪盗だと承知の上で、想いを伝えてきてくれたのに。そんな当たり前のことさえ、見えなくなっていただなんて。

「なぁ…オレさ。本当は…嬉しかったんだよ。君が、アイツを追い払うためにしてくれたことが。オレのために、血を流してくれたことが」

手の力を緩めて、涙に濡れた美しい瞳に視線をあわせる。
知られることが怖くて、そんなことを思ってしまう心が恐ろしかったけど。
全てを吐き出したって、受け止めてもらえるから。

この、キレイな涙さえ、オレのために血の色に変わっても。
苦しく思う心のなかで、喜びを感じるだろう。

「オレだって…嬉しかったさ。オレを傷つけたと…オマエが苦しんで悔いているのを見て…泣いているのを見て。オレのためだと思うと、心が奮えた」


今まで見たなかで、一番きれいに微笑んで。
そっと目を閉じたから。
迷わず唇を重ねた。








「それで、どうして逢いにきてくれたんだ?」
「え…そんなの…逢いたかったからに決まってるだろ…」
その言葉に間違いはないのだろうけれど。
なにやらはっきりとしない口調に、隠し事をかぎつける。
「名探偵?」
納得いかないと、促すように呼ぶと。
あからさまに顔をしかめてきた。
「なに?名探偵」
「…あのさ、今日はオレの誕生日なんだ」
「え…ええ?!ホント?!」
うわ…なんてことだろう!
大好きなひとの誕生日を知らなかったなんて!
「ゴメン!何でも埋め合わせするからさ!」
「いいんだ、別に」
平謝りに謝るしかないと実行しようとした矢先。知らなかったことはどうでもいいことだとあっさり片付けられた。
それなら何を怒っていたのだろう。
「誕生日だから…その、プレゼント強請ってもいいん…だよな?」
上目遣いで、気恥ずかしそうに頬を微かに染めて。
どんな瞬間も、たちまち君に魅せられてしまう。
「もちろん!何でも言って」
「じゃ、さ。オレのこと、名前で呼んで」
「……は?…あの、プレゼントの話をしてたんじゃなかったか?」
「そうだよ。だから!何でもいいって言ったじゃないか!」
「まあ…その…」
言い淀むと、早く言えと急かす眼差しで見つめてきた。
「え…と…工藤…?」
「違う」
「しん…いち」
「ああ、快斗」
「っ?!」

にっこり笑って呼ばれた名前に。
心臓がばくばく鳴り響く。

「なんだよ…だってプレゼントだからいいだろう…?」

あんまり驚いたからさぞ素っ頓狂なカオをしてたのか。拗ねた声が聞こえてきて。
照れ隠しに、思いっきり彼を抱きしめた。







end 

02.05.04

      


  ■first love

新一の誕生日編…どのへんが誕生日なのかというと、最後のシメだけという何ともいえないお話になってしまいました。…ってこのシリーズは全部がそうですね(^^;)。
さて、タイトルですが"etude"――練習曲です。告白したけれど、恋人の一歩手前。心がヨタヨタしていて本番までの準備期間というか、だから練習かなぁと。とって付けたような説明ですな(笑)。
最初と最後の様子がまるでちがいますけど、これもいつものことですね。
いい加減、ラブになってもらわないと悩みまくるのも好きだけど限度というものがありますし(笑)。だって、クリスマス編のあとがきに『この後はラブラブしている』なんて書いてしまったから〜。
前にこのシリーズはイメージした曲があると書きましたがこの際だから。小田和正の『キラキラ』です。どこがと思われても、心のなかに閉まってっくださいませね。ははは♪
ではでは、お付き合いくださりありがとうございました。






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