あの時。
穏やかな寝顔を見ながら、安らぐ心の片隅で思った。
これは利用できる、と。
彼のためではなく。
自分のため。
彼を苦しめたくないから、ではなくて。
苦しむ彼を見たくない、あくまで自分のために。
最初から利己に走っているのだから、今更だ。
痛む良心なんてものは持ち合わせてはいない。
もし彼女が望まない行動に出れば、それなりの対処の心算だってできていた。
それなのに。
「心配しなくても、彼には何も言わないわ。私はどちらに肩入れもしない。だってこれは必然的な未来だったんですもの」
彼女に責める気配は欠片もなく、ただそう告げた。
「そうでしょう?怪盗である存在理由。それがわかっていてあなたは彼を求めたし、彼はあなたを受け入れた。不安定でいつ壊れてもおかしくない幸せだと承知の上で」
怪盗である限りついてまわる死の危険。
彼を常に怯えさせているモノ。
「もちろんコレはあげるけど。私はどうなろうと事後のフォローはしないわよ」
選んだ方法が間違いだとも、止めろとも言わずに。
自分自身で決めたことなら、最後まで責任をとれと。
突き放しているようで必ず帰ってこいと言外に含ませた、優しい彼女。
帰ってこれない時のためにこそ、コレが必要―――なんて、言えるはずもなかった。
最後の我侭・3
微かな息吹と。仄かなぬくもり。
(嫌だ!これは、嫌…っ)
唇に瞬間的にもたらされた感覚に、新一は目を覚ました。
「…っ!」
暗闇。
どこまでも続く漆黒に、数度瞬きを繰り返す。
眠りの中と、現実の闇に境を見出さそうとするが、自分の手すら捉えることができない。
心臓が早鐘を打ち出す。
(快斗は…?!ここにいたはずなのに…!)
しっかりと両の腕に抱きしめて、眠りについた。
ベッドの上をまさぐるように腕を伸ばしても、触れるのは冷たいシーツだけ。
嫌な予感がカタチを取り出す。
さよならのキス。
出会った当初から、触れるだけの口付けは別れの挨拶だった。
一緒に眠って迎えた朝、抱きしめていた腕をほどく時に。
しばしの間離れる、その出掛け際に。
だから、新一にとって大嫌いなキス。
唇に触れても、もうぬくもりはない。
いつもなら、際限なく熱を分け与えてくる快斗が、このときだけは違って。絶対に、自分の名残をとどめない。
(どうして?!だって、今日は新月なのに…!快斗が絶対に傍にいる日なのに…っ)
―――――今夜は、絶対に彼から目をはなさないで。
電話の声が、よみがえる。
縋るような女の声が、不安を増大していく。
そして、もうひとつ。
新一を怯えさせる不安要素。でも、それが何なのか思い出せない。
「…い、と…っ…快斗…っ!!どこ…っ?!」
どうしようもなく怖くなって叫んだ。
すると。
「新一?どうしたの?」
すぐ、そばで声が返る。
「か…いと…?」
声のした方に手を伸ばすが、空をきるだけ。
いくら目を凝らしても姿を見出せない。
「な…んで…?なんで気配を消してるんだよ…?!」
「へ?消してなんかないけど?ちょっと待ってね」
「ど、どこに行くんだ…っ」
感じられない気配に、自分が作り出した幻ではないかとさえ思う。
存在を認めることができないから、そのまま消え失せてしまうような気がして。
「どこにも行きやしないよ」
安心させる言葉と共に、闇は白い光に払拭された。
しかし、視界は白に塗りつぶされて何も捉えられない。
「み…えない…快斗…!」
「ここだよ。一体どうしたの?」
もう一度、手を伸ばす。
今度は、求めたぬくもりを手に入れた。
引き寄せると、そのままぬくもりに抱きしめられる。
戻った新一の視界には、間違いなく快斗はいて。
「快斗…快斗、だ」
「そうだよ?なに?怖い夢でも見た?」
「ゆめ?」
そう言えば、最初の恐怖は目が覚める前。
けれど、あまりにも現実感があり過ぎた。逆に、今の現実のほうが、どうしてかあやふやさを感じてしまう。
新一は、抱きついていた快斗の肩口におもいっきり噛み付いた。
「痛ーーーッッ!!新一くんっ痛いってッ!!」
「…痛いのか?」
「痛いよ〜、うう…っ」
涙目になっている快斗の目元に、新一はそっと口付ける。
痛みにうめいていたのもどこへやら、快斗は歓喜の声を上げた。
「うわぁ!新一くんからキスしてくれるなんて。もっとして」
「キス…」
「うん、もっと」
強請る快斗の唇に、指を置く。
「オマエさ。さっきオレにキス、した?」
「キス?どんなキス?こんなの?」
唇を合わせて、じっとりと新一のそれを嘗め上げる。
「それともこんなのかな?」
「ちょ…っ…んん」
止めようとする新一の手を抑え込んで、今度は下唇を吸い上げた。
「も…もういい…っ!や、だって…!」
「新一くん、誘っておいてそれはないだろー」
顔を背けた新一に、快斗は不満いっぱいだ。
「誰が誘ったんだ!オレはキスしたかどうかを聞いただけだろ!」
「だから、思い出そうとしてるんじゃないか。キスしながら、ね」
早く思い出すために続きをしよう。
それはそれは楽しそうな様子に、この後の展開まで見えて、慌てて話題を変える。
「そうだ!どうしてベッドにいなかったんだよ!一緒に寝てただろ?!」
そうでなければ、あそこまでみっともなく取り乱すこともなかったのに。新一は快斗が腕の中から抜け出したのが何だか許せない。
「ああ、それはさ。ご飯だって呼びに来たのにベッドに連れ込まれたでしょ。食べないなら冷蔵庫にしまうものもあったし、火の元の確認もしとかないといけなかったし。新一の腕の中に戻りたかったけど、なんだか起してしまいそうだったからね」
あそこまで疲れさせてしまったのはオレだから……なんて、続くだろう快斗の言葉は十分に予測できた新一は、またもや話題を変えることにした。
「じゃ、メシ食う。腹減った」
「はいはい」
手早く用意された食事を済ませた後。
いつもならすぐにリビングに移動するが、新一はダイニングに座ったまま後片付けをする快斗を見ていた。
空腹が満たされれば気分もゆったりするのに、どうしても寛ぐ気になれない。
(…なんで、だろ………苛々する…っていうか…落ち着かない…)
無意識に、指先は唇に触れていて。
夢の中で感じた口付けを思い出してしまう。
「どうした?眠くなってきちゃった?」
キッチンカウンター越しに、快斗が声をかけてくる。
「いや…そう言えば、今何時?」
「1時ぐらいだよ」
「ふぅん」
昼間、散々快斗に付き合わされて気を失うように眠り、一端起きてまた眠った。そのせいで時間の感覚がヘンになっている。
(もしかして、それでおかしな感じがするのかな…)
何か納得のいく理由が欲しくて、新一は色々考える。
(今日は事件もあったし…神経も少し昂ぶったままなのかも…それに快斗が……そうだ!まだ言い訳きいてない)
カフェテリアで女の人とお茶を飲んでいたこと。
傍から見れば恋人のように見えなくもなく。誤解させることが目的だとしたら、好き放題快斗にされた新一としては怒る権利はある。
(でも…快斗なら単純にナンパされてたってほうが自然だよな…2時間以上も待ち状態だったんだから手を出されても仕方ない…)
そうなると、もうこの件を持ち出すのは自分のためにならない。
心の中で整理がつくと、もうどうでもよくなるが、落ち着かない気分はまだ続いていた。
(…カフェのことは別に問題じゃないってことか……じゃあなんだろ……あ、れ…?)
考えに没頭していた新一は、何の物音もしない空間に気づく。
「か…いと…?」
椅子から立ち上がって、つい今しがたまで快斗の姿があったキッチンへと声をかける。
(気配がない…?!どうして…快斗どこにいったんだ?)
「快斗!」
「新一?」
ひょいと、冷蔵庫の影から顔がのぞいた。
「あ、あれ?いた、のか…」
「いたけど?ちょっと待ってね、お茶いれるから」
「う…ん…」
脱力して、椅子に逆戻りする。
快斗は確かにいるのに。ちょっと姿が見えないだけで不安になるなんてどうかしている。
新一は、自分に言い聞かせながら、じっと快斗の背中を見詰めた。
ティーカップを並べ、蒸気を出すケトルからポットにお湯を注いでいる。
ほんのりと甘い香りが漂ってきて、どことなくほっとしている、と。不意に快斗の右腕がぶれた。
手から滑ったケトルが大きな音を立てて調理台に落ち、皿が割れる音が響く。
「快斗!大丈夫か?!」
目の当たりにしていたが、何でもそつなくこなす快斗らしからぬことに新一は呆然とする。それでも、腕を押さえている快斗に、慌てて駆け寄った。
「入ってこないで!破片がとんでるから」
「何言ってるんだよ!怪我したんだろ?!やけど?!」
ケトルのお湯がかかったのかと、快斗の腕を掴むが。その指の間からは赤い色が覗いている。
「血…!血が…」
「ああ、破片が飛んできたみたいでさ」
「手当てしないと!」
「いいよ、新一。大したことない」
「でも…っ」
落ち着き払った快斗の態度。
どんなことでも快斗が平静でいれば新一も焦るような事はないのに。どうしてか恐ろしくて堪らなくなる。
「じゃあ、救急箱出しててくれる?ここ片付けたらリビングに行くから」
「あ、うん!わかった」
大きく頷いて駆け出していく新一を見送り、快斗は傷口をおさえていた手をのける。
「……つながってる、か」
ペイルブルーのシャツには、赤い染みだけができていた。
ハーブティーのカップを両手で持ちながら、新一は快斗が手当てをするのを見守る。
してやろうとしたのに、カップを渡されて。テーブルにはさっさと救急箱の中身が並べられたせいで置けない。だから、見ているだけ。
しかも右隣に座られたために傷を伺うこともできない。
手早く消毒して絆創膏を張るまであっという間だったから、新一が文句を言うヒマもなかった。
「なんでこんなドジしたんだよ」
いつもならあり得ない出来事に、血を見せられた新一としては咎めたくなる。
「ごめんね。ちょっと緊張してたもんで」
「緊張?」
「そ。だって新一くん、熱い視線を送ってきてたでしょ。ドキドキしちゃったよ」
「な…っ!!」
開いた口がふさがらない言い様。
実際、見詰めていた自覚のある新一は、一気に顔が紅潮した。
「あ、もしかして。まだネツが冷めないとか?それならそうと言ってくれれば」
にっこり笑ってにじり寄ってくる快斗に、必死で頭を振る。
「ふざけんなっ!明日は学校があるんだぞ!」
「休めばいいじゃん」
事も無げな言い草に、手を振り上げると頭に一発食らわす。
「このバカ!」
「痛い…」
「当たり前だ。頭を冷やしやがれ!」
新一は救急箱を取るとリビングから出て行く。
(真面目な話してもすぐ妙な方向にいくんだから!どうにかならないのか、アイツの頭のなかは!)
ムカムカしながら、自室へ来ると救急箱を元の場所へとなおす。そして、そのままベッドに横になった。
目を瞑っても、付けっぱなしの明かりは瞼を浸透してきて落ち着かないが。明かりを消す気にはなれない。
闇が怖いことなどなかった。
しかも、今日はいつもより安心する日だった。
(……なんでだろ……どうして今日に限って……)
先程、ダイニングで中断したことをもう一度考えてみる。
(何か…忘れてるって思った…起きたときも……快斗が……)
不安の原因が快斗にあるのはわかっている。
けれど、どうしてなのかを考えようとしてもちっとも意識が集中しない。
「どうして…来ないんだよ…快斗のバカ」
殴ってきたとはいえ、本気で怒っていないのくらいわかっているはずなのに。
一人にされると。姿が見えないと。
途轍もなく怖くてたまらない。
(…怖い?そうだ…怖いんだ……まるで、ひとりで取り残されたような…)
飛び起きる。
階下からは物音一つしない。
誰かがいる気配すらない。
「そんなはず、ない…あるわけない」
不確かな現実感。
「快斗…っ」
さっきから、そこにいるはずなのに気配が希薄な快斗。
ベッドから降りて下へ向かおうとした時、扉がゆっくりと開いた。
「新一?まだ、怒ってる?」
機嫌を伺う風情もなく、相変わらず楽し気な雰囲気を纏って入ってくる男。
「快斗…」
「ありゃ。もしかして眠くなってきてた?」
怖くなって。傍にいて欲しくて名前を呼ぶ。
その度に現れる。
けれどあまりにも都合よすぎて、やはり自分のつくった幻のように思えてしまう。
快斗のシャツに手をかける。
「え?え?あの、新一くん?」
焦る声を無視して、3つばかり外すとあとはボタンが飛ぶのも構わずに前を開いた。
顕わになった左肩には、しっかりと歯型が残っている。
「…あった」
「あるさー。だって新一がつけたんじゃん」
「そ…だよな」
確かにここに存在する証拠。
ほっと肩から力をぬいた途端、視界がぐるりと回った。
「ちょ…っ、快斗!なにすんだよ!」
がっちりとベッドに押さえ込まれた状態。
「何って決まってるだろ?さっきから新一くんってば誘い上手だな〜」
「いやだ…って…ん…」
しっかりと唇を合わせられ。
抗議のために開いた口に、するりと入り込んできた熱い吐息。
絡められ、吸い上げられる舌先。
新一が夢中になるのに、そんなに時間はかからない。
求めるように、快斗の頭を掻き抱いて。
絡められたら、絡めて。
吸われれば、吸い返して。
息が上がってきても構わずに、もっと深く合わせようとして―――――。
「ん…っ?!」
口中に広がる錆びたモノ。
驚いて引き離す。
「快斗、血が…!」
ゆっくりと、新一の上から起き上がった快斗。
その、色づいた唇。
端から赤いモノが滴っている。
訳がわからないながらも、拭おうと指先を伸ばして。体を起して。
さらに赤いモノが、視界に飛び込んできた。
腹部に広がる、真っ赤な染み。
次第に、広がっていっている。
「か…いと…っ?!」
悲鳴のような声を新一があげても。
快斗の瞳は、どこまでも静かだった。
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01.12.12
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