いま、ひとり /scene.8
カチリ。
滑らかにまわった鍵。
音もなく動く、扉。
開け放った途端に、エントランスに明りが灯る。
澄みきった室内。
塵ひとつない床。
春先に閉ざされた部屋。
それなりの覚悟をして来た新一は、ちょっとばかり肩透かしをくう。
けれど、用意周到で一度だって後手にまわったり失敗したりしない人だったから、抜かりのなさは当然のこと。
新一は何度も訪れたことがあるのに、初めてのような感覚をぬぐえない。
それがなんなのか、思い当たって。
改めて、この部屋が怪盗の持ち物だったことを認識する。
「玄関から入ったことなかったもんな…」
出ることはあっても。
いつも怪盗の強引な腕に抱えられて、ベランダから訪れていた。
靴を脱ぐと、正面に広がる夜景へと進む。
白いオーガンディ素材のカーテンを引いて、ガラス戸を開く。
「わ…ぁ…」
強い風が飛び込んできて、新一の全身を包む。
さすがは超高層マンションの最上階だけあって、地上の熱気を孕んだものではなく夜空の涼やかさそのもの。
眼下に広がる街の明りは、とても小さくて車は豆粒ほどしかない。
こんな高さをものともせずに、新一を抱いて怪盗はここに降り立っていたのだ。
小さい姿の時ならまだしも、元に戻ってからさえも。
それはたった一度だけのことだったが。思い出して、新一は顔が上気していくのと同時に胸が苦しくなった。
ガラス戸を閉めて、ゆっくりと後ろを振り返る。
とても大きなフロア。
元々2LDKだったのを、壁をなくし一つの空間にしたせい。
その中央にぽつんと置かれているもの以外は何もない。
怪盗の隠れ家として使用している以上、痕跡は残さないに限るのに、唯一置いてあるもの。
それが、真っ白いソファーベッド。シンプルで飾り気のない彼らしいそれ。
新一のために、選んだもの。
「名探偵を床なんかに座らせるわけにはいかないからさ」
静かにやわらかなクッションの上に下ろしながら、笑った彼。
やさしくて、あたたかくて、大好きな顔で。
思い出すのはいつもそれ。
けれど、今は違う。
微かに目を眇め、何かを耐えるように眉を寄せた顔が瞼に浮ぶ。暗闇のなかでも輝く瞳は、痛いほど強い力が込められていて、激情そのものの顔が。
「頼むから…逃げないでくれよ…逃げたら、オレ…加減ができなくなる…っ」
熱い吐息が唇をかすめて、求められているものがなんであるかを知った刻。
火照る頬を、クッションに押し付ける。
だが、胸の奥は凍えていく。
新一は、ここで初めて彼の熱さを感じた。
熱くて、その熱に溶かされそうになって。朧気だった彼に対する愛しさが、明確なカタチとなったのだ。
苦しさに手を伸ばせば、しっかりと握り締めてくれて。
力強い腕は痛いほどに抱きしめてきて。
何があっても離れないと、そう無言の誓いを立てているよう。
求められることの嬉しさと、求めることのできる喜び。
刹那の出来事ではなくて、先に続く未来のための行為。
それなのに。
いま、ひとりなのだ。
新一はそれを痛切に思い知る。
あの時、伸ばされた手を受け取らなかったことを、新一は一度だって後悔しなかった。
それは今だって、変わらない。
彼が夢へと進んだように、新一だって探偵として一人前になりたかったから。
彼が彼自身の名前で揺ぎ無い立場を手にした時に、ちゃんと「名探偵」と呼んでもらえること。
何より、そのことが新一にとっては大切だった。
彼からもらった唯一誇ることのできる自分の価値であり、そして――――
怪盗でなくなった彼。
けれど、新一に探偵の立場を忘れさせることはしなかった。
「名探偵」
いつもそう呼ぶ。
新一が探偵として尊ばれることを、すごく喜ぶ。
「また、名探偵の活躍がのってるよ」
新聞記事を見ては、自分のことのように嬉しがる。
彼の前だけでは、探偵であることを忘れていたら。
あの手を受け取っていたのだろうか。
最近、新一はよく考える。
けれど、仮定法過去なんて考えるだけ愚かなこと。苦笑して、ただ彼を恋しがっている自分を知るのだ。
「ホントに…愚かだよな…」
あんなに大切にしてくれて、愛してくれても。
熱を共有した夜が過ぎても。
一度だって、新一は名前で呼ばれはしなかった。
「名探偵」
口からでるのはその名前。
――――彼にとっての新一自身なのだから。
01.10.10
≫scene.9
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