いま、ひとり /scene.7
夏は、激しい季節。
望むと望まざるとに関わらず、灼熱の波に飲まれていく。
肌を焼かれ、熱気に満たされ、体力を奪われる。
抵抗しようもない嵐にも見舞われ、暴雨と暴風の前に為す術もなく。ただ通り過ぎるのを待つだけ。
立ち去っても、残された爪あとは深く、元の通りには戻らない。
そんな季節そのものの男の到来。
刑事の車を見送って、家の門に手をかける。
疲れからだけではない重い足取りで、玄関までの石畳を歩く。
鍵のかかっていないドアに、客人がすでに戻ってきていることを知り、ため息を吐いた。
「いきなりそんなこと言われても困る。悪いけど他所をあたってくれ」
事前連絡もなしに押し掛けてきた相手だから、多少乱暴な断り方をしたとて責められる謂れなどないはずだった。
「冷たいやっちゃなぁ。せっかく遠路はるばる来た親友に、茶も出さんでそれかいな。しかも遊びやのうて夏期講習受けに来たってのに、えげつないわ。ま、迷惑かけへんから、しばらくよろしゅう頼むで」
強引に言い切り、勝手に客室を探し当て荷解きをして。それでも一緒にいることなんかとてもできそうになかったから、ホテルを紹介するとまで言ったのに。
「心配せんでもええって。なんも工藤にはさせへんから。メシの用意も片付けも掃除かて俺がするさかい。それともなんや、俺に見られたら都合の悪いことでもあるんかいな」
言い合っても我を通すことに慣れた相手では、疲れだけがたまっていく。
最初から決定済みで来ているのだから、家主の意見など耳を傾けるはずも無かった。
ありがたいことに予備校の講習会は翌日からで、受験生対象なだけあり朝から夜まで時間的な拘束を受けるもの。
すれ違いの生活なら、それほど気負いこむこともないと思い直したのも束の間。
その夜のうちに、気まずさが生まれた。
「今夜は久しぶりに工藤に会うた祝いや!どうせろくなもん食ってへんやろうから、豪勢なメシを作ってやるさかいな。楽しみにしててや」
「オレのはいいから、自分の分だけ用意して食えよ」
「なんでや?遠慮せんかて…」
「そうじゃない。オレは隣で食ってるから必要ないんだ」
「隣って、阿笠はんところでか?そんなんわざわざ行かんでも、俺がおる間はまかせときい」
首を振って返した応え。
今では病人食じゃなくて普通の食事をしている。けど、哀は充分にバランスがよくて少量でも栄養がとれる食事を用意して、博士と共に食卓を囲んでくれるのだ。
探偵として警察官らと仕事上の関わりをもつ以外は、唯一接する人のぬくもり。それに縋っているわけではないが、自分から手放したいとは思わない。やさしい人たちとのやさしい時間は、今の自分にはなくてはならないものだから。
「俺は一人でさみしく食えってんか?!」
「仕方ないだろ。お前はお前の都合で突然来たんだし、オレにもオレの都合ってもんがあるんだから」
「そんなら、俺もお隣さんで一緒に食わせてもらうわ!」
「…無茶を言うな。迷惑かけないって言ったの、誰だよ」
安らぎの時を壊されたくなくて、上手な断り方もできずに苦々しい沈黙がおちた。
数日は、静かに過ぎていった。
講習会に慣れないせいもあるだろうが、最初の夜のやり取りが少しは効いたのか。むやみに関わってくることもせず、生活の時間帯が違っていたから広い家の中では顔を合わせることも無かった。
出かけた後に起きて、帰ってくる前には部屋で休む。
しかも自室は使っていないから、勝手のわからない屋敷内のどこにいるのかなんて、相手にわかりようもない。
ただ、他人の気配が伝わってくることに違和感を感じる生活。
哀も博士も、よほどのことがない限り、家の中には入ってこない。
半ば手負いの獣のようだという認識を自身ですらもってるくらいだから、近しい人たちがわからないはずがない。
これ以上傷つけられたくなくて、テリトリーに入ってくるものには神経質になっている。
あれだけ心待ちにしていた高校生活への復帰を無残なカタチで終わらせたこと。無茶のきかない躯ゆえに、探偵の仕事も思うままにいかないこと。出先で会う学校関係者や、依頼を断られた人たちが見せる落胆の色、筋違いな恨みがましい目。一方的に信頼を押し付けておいて、裏切られたと過剰な反応を示す。
気にしないようにしていても、やはり苦しくて、痛い。
心が剥き出しの状況だからこそ、過敏に感じてしまうのだ。
きっと――がいたならば、平気なのに。
ある意味、いつ暴発するかわからない爆弾を抱え込んだようなもの。
なまじっか勘が鋭くて、干渉過多な相手だけに殊更気は休まらない。
相手の動向に始終神経を張り巡らせて、一定の距離を意識的に置く。自宅の優位性も手伝って、故意に避けようと思えばできなくもなく、会わないですむことにホッとする毎日。
だが、いつまでも続くはずがなかった。
シンと静まり返って、自分の足音だけが響く空間の心地良さ。
それでも無防備に安心できるものではない。
キッチンには洗われた皿や箸、リビングには知らない雑誌、玄関には見覚えのない紙片―――律儀に予備校の場所と連絡先、今日は夕飯を一緒に食べようとまで書いてあった。
至る所に自分のいる証を残していて、一人のときでさえ忘れさせてくれない相手に苦しくなる。
昼時まで少し間があったが、ここにはいたくなくなって出ようとした時。
押し開けようとした扉が、より強い力で引っ張られた。
「出かけるんか?」
まだ帰ってくる時間では到底ないのに、目の前に立つ者。
どうしてか声は硬くて、瞬間怖くなる。
早く、ここから去らないと。
頭の中では真っ赤な危険信号が点滅していたけれど、のしかかってくる重い影に身動きがまるでとれない。
この相手が、泊まると言い放ったときからずっと抱えている危惧。それが今、最高潮に達しようとしていて、息が詰まりそうになる。
「話があるんや」
一瞬、凍っていた空間が動き出す。
「用、あるから」
漸うそれだけを言うと、脇をすり抜けて出ようとしたが。
「待てや!話あるいうてんやろ」
「!!」
腕を捕まれて、引っ張り戻される。そのままリビングへと連れ込まれた。
取り戻そうとしても力の差は歴然、びくともしない。
「はなせ…!」
声を強くするが、呆然とした表情をしてさらに力をこめてきた。長袖シャツの上からでも、伝わってくる熱が気持ち悪い。
「…っ痛」
折れそうになってつい、上げた微かな悲鳴。
自分のしたことにばつの悪さを感じながらも、それを誤魔化すようにより強気になった。
「なんや!その腕の細さは!せやから見せへんように袖の長いのを着とったんか?!」
「……なに言ってんだよ。オレは体温調節があまりうまくいかないから、夏はいつもこうだよ」
お前がいるからじゃない。お前の目を恐れているわけじゃない。
そんな意味をこめて放った言葉。
突き放している態度が冷たいと言われても、それで距離をおいてくれるならありがたい。
だけど、触れて欲しくなかったことをついに口にしだした。
「工藤は有名やからな、講習会でも話題にのぼっとった。帝丹のヤツが言うたんやけど、お前、ガッコやめたってな?!」
「………だから、なんだよ?今時、中退者なんて珍しくもなんともないぜ」
顔を少しだけ俯ける。視線を合わせないように。
「なに言うとんのや?!ここ毎日の生活かて、夏休みやからと思うて黙認しとったけど!違ったんやんか!単に自分、自堕落になってただけや!!そんな細い腕して!まともに生活かてしてへんやろっ!!」
「どうしたんや?!何があったんや?!高校に行くこと楽しみにしとったくせに?!早く戻って頑張るって言っとったやろ?!いったい何をやってんねん!!情けないわ!!」
「勉強がわからへんかったんか?!友達とうまくいかへんかったんか?!ねえちゃんとケンカでもしたんか?!サッカーかて見向きもせえへんやったってな!!しっかりしいや!!そんなん工藤とちゃうやろっ!!」
がなり続ける男は、自分の言葉がどんな棘をもっているかなんて気付きもしない。
無意識に胸のシャツを握り締めて、痛みをやり過ごすしか手はなかった。
そして、どうにかして黙らせようと―――これ以上、踏み込んで欲しくなくて。構わないでもらいたくて…。
「関係…ないだろっ…お前には、関係ないことだ」
「か、関係ないやとっ?!ふざけんなや!!俺がなんでこんな東京なんかで講習会受けるんかわかってんか?!東京の大学行くためや!!工藤と!!工藤と同じ大学に行くために!!それをお前は裏切ったんやで!!わかっとんのかっ!!俺の夢をぶち壊したんやっ!!」
心に容赦なく刺さる言葉。
肩を捕まれて、揺さぶられて。合わされた視線。
見慣れた色。悔しさと怒りと悲しさが混ざり合って、裏切りの色を作っている。
見ないようにしていたのに。とうとうこの相手までが……。
けど、先に揺ぎ無い事実として言葉で告げられた。
今まで誰も、そんな気配をみせようとも絶対に口には出さなかった言葉を。
「なんでなんやっ!!なんでそんなん投げやりになったんやっ!!そんなんなる前になんで俺に相談しいへんかったんや……っ!!」
しばらくして。
少しは激情が治まったのか、肩から手を離して両側にだらりと下げ頭を垂れた男から、間合いをとる。
強い力を受け入れさせられた体は相当堪えていたが、ふらつく足取りでサイドボードの引出しを開ける。
そこから一つの鍵を取り出すと、足元に放り投げた。
「杯戸駅前にあるマンションの鍵。最上階の部屋だから」
「……な…に、言う…とんのや…?」
「そっちのほうが近いし便利だ。すぐに移ってくれ」
「で…て行け…いうんか…っ?!」
「ああ。オレはちゃんと最初に言った。困るから他所をあたってくれって。始めからうまくいくとは思ってなかったし」
今しがたのことで、充分わかっただろうと。
これ以上、踏み込まれたくはない。引っ掻き回されたくない。
ただ、穏やかな空間とゆっくり流れる時間さえあれば。もう少しだけそうやって過ごしていられれば、全てはうまくいくのに。
「冗談やないっ!!そうやっていい加減な生活しとる工藤を見過ごせ言うんかっ?!俺を邪険にしたかて、絶対に元のとおりの工藤に戻したるわ!!絶対に出ていかへんからなっ!!」
また、痛い時間の繰り返しか。
息苦しさに飲まれそうになったとき、哀が来てくれた。
「工藤くん、ご飯よ。遅いからどうしたのかと思ったわ」
一度だって時間通りに行かなくても呼びにきたことなんてない。彼女はいつも寛大で、食事を欲しなければ無理強いすることもなく、時間的な融通もきかせてくれる。黙って見守ってくれている人。
だから、助け手を差し出してくれたのだ。
「待ちいや!今、工藤と大事な話しとったんや!嬢ちゃんは引っ込んどきいや!」
「あら、あなた。受験生なのにずい分と余裕じゃないの。普段、勉強してないから、今ごろ予備校なんかに行って足掻いているくせに。ご両親もムダな投資をしたくはないでしょうし、サボってないでさっさと授業に戻りなさい」
「な…っ」
あんまりな言い草に返そうとして、哀の鋭い眼光に押し黙った。
出て行くまで、哀はしばらく博士の家にいるように勧めてくれた。
だが、何の憂いもなくなってから、哀は博士との生活をどんなに楽しんでいるかを知っている。自分が、他人に入り込まれるのが嫌なように、哀だってそれは同じだろう。
迷惑を掛けっぱなしな彼女に、これ以上負担はかけたくなかった。
それでも、その日だけは泊めてもらって。
帰ろうとした翌日、警部から電話で呼び出された。
二日にわたる長丁場な事件は、体力的な不安はあったが今はとてもありがたかった。
自分の家のドアを開けるのに、どうしてこんなに勇気がいるのだろうかと。苦笑しながら、それでもそっと開ける。
車の気配に気付かなかったからドアが開いても気付かないだろうと思った通り、家のなかから迎えに出てきはしなかった。奥からは水音がしているから、風呂にでも入っているのだろう。
それでも、静かに歩く。
1階の奥にある、曲がりくねった廊下の突き当たりの部屋。その続き部屋が、今現在の自室。
こじんまりとして、日当たりの悪さに使い勝手のない部屋。要は間取りの調整スペースだが、意外に役立った。
夏が過ごしやすいというだけでなく、隠れ部屋的な要素もあったから、怪盗と連絡を取り合うのに最適だった。
明りが外に漏れなくて、多少騒いでも声は響かない。
そうして、過ごした日々。息詰まりそうな時のなかで、唯一安らげた空間。
彼の気配が、微かに残っている部屋。
最後に逢ったのもここ。
だから、離れられなくて。自室には戻らなくなった。
ライトブルーの布の張ってあるソファーに座った彼、その膝の上によく抱えあげられた。
元の姿に戻るために身を震わせていたのは、隣室のクローゼットが出っ張っているところ。寄りかかって縋るには丁度よくて、苦しさに爪をたてた痕も残っている。「爪がはがれる」そう言って、いつの間にか現れた彼は、その場で抱きしめてくれた。いくら爪をたてても、痛みに暴れて叩いても、決して離さなかった。
それから、伸ばされた手を受け取らなかった日。
そっぽを向いている傍らで、やさしい声は綴られた。
「ここ、そのままにしとくからさ。好きなときに使っていいよ」
小さな飾り机の引出しに、忍び込まれた銀色の鍵。
それを握り締めると、ポケットに入れた。
01.10.09
≫scene.8
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