Hey,
darling!〜2
静まり返ったキッチンに恐る恐る足を踏み入れて、何も変わりがないことにほっとする。
窓から入ってきた陽光が、調理台の上の埃を白く浮き立たせても。
冷蔵庫を開けて、そこにミネラルウォーターと栄養補助食品の黄色い箱しか入ってなくても。
新一は、心底安堵した。
一週間前は湯気のたつ料理が並んでいたなんて、まるで夢のような話。
帰ってきたことを告げると、早速やってきた幼馴染はそれは嬉しそうにはしゃぎながら用意してくれた。時折、涙ぐみながら。
その度に覚えた胸の痛み。
傷つく資格なんてありはしないのに、苦しくて辛くて。
どれだけ彼女に心配をかけて泣かせたか。
彼女が可愛がっていた存在を取り上げて。
今なお、騙しつづけている己の卑怯さ。
そして、少しずつ感じていた距離をはっきりと突きつけられたこと。
小さい姿で共に暮らしていく中、彼女は次第に"女性"へと変化していった。
今まで見たことのない表情で笑い、泣き、悩み、怒って。
小さい新一に対し、"新一"のことを語るときなんて、キラキラと眩い光をまっとっていて。
かわいいと思っていたのに、奇麗だとしか言いようがないくらいに輝いて。
「おかえりなさい」
そう言った彼女は、もう新一にとっては見知らぬひとだった。
下から伺い見ることしかできなかったから、曖昧なままにしていられたが。
目線を同じくして、如実に思い知る。
丸みを帯びた体。
睫の下から流すような視線。
香り立つ、大人の匂い、も。
取り戻した身体が、もし2年分の成長を伴っていたら、素直に彼女を受け入れることができたのだろうか。
(いや、違う)
新一が受け入れられないのは彼女の変化ではなくて、気持ちの方。
一人の男に抱く、彼女の女としての好意。
だから、期待に満ちた彼女に。
「もうこれ以上、迷惑かけないから。心配しなくていい」
自宅まで送り、別れ際にそう告げた。
泣き出しそうな瞳が、新一の真意が伝わったことを物語っていて。
彼女への罪が、新たに増えたことを実感した。
例え、彼女の好意を嬉しく思ったとしても、応えることのできる現状ではない。
だから、どの道結果は同じなのだ、と。
新一は、言い訳のように何度も自分に言い聞かせた。
休日にはいつも食事を作りにきてくれた幼馴染。
もうありえないこととわかっていても、以前の休日の記憶が新一を緊張させた。
身体から力が抜けると、気だるさが復活してくる。
もう一度寝なおそうといくら頑張っても、怪盗に対する悔しさと夢のせいで眠気は一向に訪れなくて仕方なく起きたのだ。
コーヒーを煎れる気もなければ、朝食の買出しにいく気もない。
「あー…でも、昼メシと夜メシはどうにかしないとなぁ…」
ぼんやりとする頭で、黄色い箱を開ける。
「…1、2、3…4本か…ってことは明日の朝まであるか」
クッキー状の食品の数を確かめ、一食につき一本食べれば買い物は明日行けばいいか、などととんでもないことを新一が考えていると。
「ちょっと、工藤くん。あなたってホントにどうしようもないひとね」
呆れた口調には些か怒りも滲んでいて、肩をすくめながら新一は声のほうに振り向く。
「…灰原」
「はい、朝食よ」
ドン、と乱暴にトレーを置いて、哀は新一の前に座った。
トレーにはサラダ、パンとフルーツがのっており、コーヒーにはしっかりとミルクが入れられている。
「あの…」
「なに?」
「…いただきます」
ブラックしかのまない、だなんてとても言えずに、大人しく口に運ぶ。
胃袋にあわせて少量ずつ盛ってあるものを食べながら、睨みつけてくる哀をそっと伺う。
なんだか言いたいことがいっぱいありそうな感じで、食べ終わった時が怖いなぁ…などと思っているから次第にスピードも落ちてくる。
そんな無駄な抵抗に、哀は待ち態勢でいるのをやめた。
「ねえ、名探偵さん。私がどこから入ってきたか気にならないの?」
「……玄関、からだろ?」
「あなた、今日は新聞取りに行ってないわよね」
「………ない…けど…」
盛大なため息。
先程よりも呆れかえった表情に居たたまれなくなる。
「戸締りもできないなんてどういうことかしら。それに健康管理も」
「健康管理って…そのくらいは。コレはたまたま…」
何もなかったから、仕方なく。なんて悪足掻きにしかならないことを、一応言い分けしてみる。
「じゃあ、昨夜は何を食べたか言いなさい。お昼はどうしたの?」
「あ…の、それはその…事件だったから…」
「大体、遅くなるならちゃんと連絡するようにって、私は言わなかったかしら?」
「……言った」
よくよく見ると、彼女の目の下には小学生に似つかわしくない隈ができていて、寝ずに待っていたことは容易に想像がつく。
「ごめん…あの、今度から気をつけるから…」
「そうして欲しいわね」
元通りの生活を始めて、一週間。
幼馴染の家で面倒をみてもらっていたときとは違い、自分の面倒は自分でみなければならない。
この一週間、哀は辛抱強く新一が生活態度の改善に努めるのを見守ってきた。が、やはりというか一人だと何もしようとはしなかった。
しかも、危機管理能力はあれだけの目にあったにも関わらず、まるで発揮されない。
(これで探偵だなんて、しょうがないひと)
探偵であるだけでも危険度は普通人よりも高い。しかもこんな殺伐とした世の中、頭のおかしな連中はたくさんいる。新一のような容姿だと、どこで見初められて付け狙われるか知れたものではない。
それに、あんな大事件に関わりあったばかりだ。組織の残党が新一と組織の壊滅を結びつけて報復手段に出ないとも限らないのに。そのことを新一だって十分に承知しているはずなのに。
(どうせ口をすっぱくして言っても無駄なのよね)
はぁ、とまたまたため息をつく哀に、新一は身を縮ませるしかなくなる。
何かにつけ面倒見のいい哀には、迷惑ばかりかけている自覚はある。
彼女のおかげで元の姿を取り戻せたことがあるから余計に頭はあがらなくなった。
元には戻らなかった哀。
偽りの姿で鏡に映ることを怖がっていたのに、小さな姿でやり直す道を選んだ。
本当に、強いと思う。
新一は、あの偽りだらけの日々から早く抜け出したくてたまらなかったのに、哀は偽りを真実に変えてしまったのだから。
(女…って強いよなぁ)
しみじみと思う。
幼馴染も、あの日の翌日には笑っていた。
「やっぱり、新一がすぐ手の届くところにいるのは嬉しい」
そう言って恨みつらみもなく、悲しさもなく。
「工藤くん、電話」
「…え?!」
哀に指摘されて、ベルがなっているのに気づく。
ぼうっとしていたことで気が緩んでいると怒られては適わない。新一は慌てて立ち上がると、時代遅れのアンティークな電話を取り上げた。
「はい、工藤です」
『あ、新ちゃん。よかったわ〜おうちにいたのね〜』
「…………」
瞬間、新一は電話に出たことを激しく後悔した。
新一の知る"女"のなかでも、強さにかけてはトップともいうひとだ。どんな無茶を言われるか、深呼吸して覚悟を決める。
『ちょっと出てらっしゃいよ』
「出て…って?まさか…日本にいるのか?」
『そうよ』
無邪気な声であっさり告げられて、のどかな休日に暗雲が立ち込めていくのを感じた。
『あのね。とってもいいプレゼントがあるのよ〜』
「…なんだよ、それ」
『それは後でのお楽しみ』
「教えてくれないと、行かないよ」
この母親に付き合って、苦労のなかったことはなく。
いいプレゼントだなんて、有希子とまるで価値観の違う新一としては欲しいとは思わない。
『来ないと絶対に後悔するわよ。あ、優作〜新ちゃん、ヤだって駄々こねてんのよ〜』
『おやおや、新一くん。それはあんまりじゃないかい?君は元に戻ったというのに、連絡一つ寄越さないままなんだよ。だから、わざわざロスくんだりから来たのに』
「ご苦労さま。元気な声きいたから、もういいだろ。そのまま帰れ」
有希子に優作までそろえばロクデモないことに巻き込まれるのは必然的。
何があっても行かない――そう決心したのも束の間。
『復活祝いの品をあげようと思ったのにね。本当にいいモノだよ?まあ、私たちがそちらに行ってもいいけど』
「わかった、行けばいいんだろ。で、場所はどこだよ」
家まで来られてそのまま居着かれるのは御免であるから、新一は仕方なく応じることにした。
"いいモノ"が何であるか気にならなかったわけではない。本当に両親の言うと通りかどうかは実に怪しいし、体よく呼び出すための口実かもしれないけれど。
(でも、直接ここに来なかったってのは来れなかったってことだよな)
不意をついて帰ってきては驚かすのが好きなくせに。新一は、一端戻した受話器を取り上げると、覚えている番号をコールした。
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01.12.19
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