突然、断ち切られた関係。
嘘であって欲しくて、騙されているだけならどんなにいいか。
事実として頭では認識できているのに、心は悪い夢だと思い込もうとする。
それなのに、本当の夢の中では彼は変わらず微笑んでくれるのだ。
抱きしめると、しっかりと背中へと手を回してきて。
口付けを強請るように、目を瞑ってくる。
ようやく月夜だけの恋仲から、四十六時中愛し合える恋人へと踏み出したのに。
現実を否定しなければ、息をするのさえできないくらい。
もしかしたら、事件の関係上そんなふうに装う必要があったのではないか。
有り得ないとわかっていても、可能性に賭けて自分自身を誤魔化す。
彼が扱った事件を調べては、どうにかこじ付けられる要素はないかと探し回ったけれど。
どうにもならない現実だけが、目の前に立ちはだかる。
愛し合った記憶を求めるように、自然と足は彼のもとへと向いた。
消毒薬の立ち込める、廊下。
そんなに長くないのに、突き当たりの病室まで異様に時間が掛かった。
目指す扉を前にして、中の気配に気付く。
そこにいる者たちの話の内容を聞かなくても、わかった。
どんなに離れていても、強い生命力に満ちたひとだから。存在感は凄まじいものがある。
なのに、消えかかっている炎のような、儚さしかない。
そして、固く閉ざされた、意識。
殻に篭もって、激しく外界を遮断している。
来なければ良かったと、後悔した。
amnesia
5
白い面、影の落ちた長い睫。
軽く結ばれた唇、身じろぎをしない身体。
あまりにも静かに横たわっているせいで、生きているのか疑うほど。
このままひっそりと息を引き取っていても不思議でないくらい、沈黙した空間。
それがたまらなく痛くて、早く目を覚まして欲しいと願う。
反面、その刻が酷く怖くて。
このままいつまでも眠り続けて欲しいとも思う。
彼が覚醒したときに突きつけられるであろう現実が、とても恐ろしかったから。
月明かりは、彼が瞳を開く瞬間を余すところなく照らしてくれた。
2、3回瞬きをしてから、傍らの気配に気付いたのか。ゆっくりと顔が横に向けられる。
知らず知らずに息を詰めていた。
緊張はピークに達して、力を込め過ぎた指先は白くなっている。
おそらく告げられるであろう言葉を、辛抱強く待つ。
どうしてここに留まったのだろうと、後悔してもすでに遅い。
いつかは迎えなければならないのだから、それなら早い方が思い切りもつくと、そう決心したにも関わらず。
今更逃げ出すことも出来ずに、ただ彼が口を開くのをじっと見守るしかなかった。
「寝待月…か」
大きな寝台に座って、快斗は前面のガラス扉から月を望む。
満月の夜から数日、その姿は次第に痩せていっている。
「……承知していた、はずなのに…な」
月はいつまでも満ちてはいない。日が経てば欠けてゆくもの。
奇跡がおきて恋が叶ったとしても、ずっと好かれ続けるなんて有り得ないと思っていた。だから、快斗は恋することに臆病だった。
それでも期せずして手に入れた幸せは、いとも簡単に快斗を悩みの迷路から解き放った。そして、貪欲なほどに恋するひとを求めさせた。
対して、時にやさしく時に情熱的に抱きしめ返されて。どこまでもどこまで、のめり込んだ。
幸せに酔っているときに、嫌なことなど考えたくはない。不安定な位置で愛し合っていたせいもあって、余計に思考から切り外していた。
どうせいつかは失ってしまう、それなら最初から手に入れないほうがいい。
新一を手に入れる前に、ずっと快斗が噛み締めていたこと。
だからこそ、色々な理由をつけて心を鎮めようとした。恋ではないと言い聞かせていた。
いつかは訪れる、別れの時。
快斗が恋に酔いしれながらも、心のどこかで承知していたことだったけれど。
こんなに突然くるとは思ってもいなかった。
「あの日は…十六夜だったんだよな…」
あと数時間で、自分の全てが受け入れてもらえる。
そう思うと、快斗はどうしようもなく興奮して眠れなかった。
何かしていないと落ち着かなくて、必要もないのに警察無線を盗聴し手持ち無沙汰な状態から脱した。
そうして飛び込んできた、信じられない情報。
明けてゆく空、白んでいく大気のなかに、凛然と座している月。
自然と窓の外に吸い寄せられて、快斗は視界一杯にそれを納めた。
嘘だ、そんなことがあるはずない―――間違いだと否定したくても、心のどこかで納得してしまった。
ああ、やっぱり、と。
月は、満ち満ちた状態から欠けはじめていたから。
約束の時間、約束の場所。
来ないとわかっていても、行かずにはいられなかった。
別れは突然、襲いくるものだと知っている。父を失ったときに快斗は嫌というほど味わった。
それでも、"恋"を失ってしまったとは思いたくなかった。
もう少しで、愛するひとの全てを手に入れられたのだから。簡単に諦められるはずもなく、約束に縋らずにはいられなくて。
もしかしたら、ほんの一時的な症状でしかないのではないか。
約束の時間が迫ってくれば、心が焦燥して意地でも思い出すのではないか。
想いの強さに勝るものはどこにもないのだから――――と、回復して来てくれることを只管に願った。
浅はかな望み、初めから叶うはずもないこと。
時間が過ぎていくにつれ、快斗は思い知らされた。
(もう、彼はオレと愛し合ったひとではない)
(想いも思い出も、何もなく。彼にとって、オレはただの見知らぬ他人に過ぎない)
仕方ない。
誰も、快斗と新一の関係を知らないのだから。
全てを無くしてしまった新一に、快斗は自分の存在を納得させる術を持ってはいない。
皆が皆、知らないのに、快斗だけが知り合いだったと言っても新一が信じてくれるはずもない。だから、仕方ない。
このまま新一が何も思い出せなくて、新たに人生を始めるとしても。もう、どこにも快斗は入り込めない。新一と交わる余地などない。
待ち続けた3時間。
後少しすれば新一は来るのではないか。そう思いながらも快斗自身、心に区切りをつけるために必要だった時間。
いつかくる未来が少し早まっただけだと、そう言い聞かせて。
熱く狂おしかった新一との恋はもう過去のことだと、想いを振り切るように快斗は約束の場所を後にした。
「過去になんか…できるはずない…」
一方的な恋だったならともかく。
互いに伸ばしあった手が、触れ合う直前でのことだから。
快斗は身体を倒して、マットレスに沈み込んだ。
3日間、誰も寝ていないベッド。それなのに、やさしく甘い匂いに包まれる。ついさっきまで、新一が寝ていたような錯覚すらさせる。
この屋敷には忍び込むことが常だった。闇に紛れて、鍵の掛かっていないテラスから訪れる。
今夜も、忍び込んだ。待っているひとがいない、沈黙した屋敷に。
いつもと違うことが、快斗に現実を思い知らせる。
そして、もう一つ異なっているのは、快斗が白い姿をしていないこと。
「今更、だな」
今更、こんなナリで出入りをするくらいなら、何故もっと早く心のままに行動しなかったのか。
もっと早く本当の姿で新一に逢っていれば、堂々と見舞いに行くことができたのではないか。
どうしようもないとわかっているのに、愚かにも快斗は後悔を募らせる。
耳に残っている、遠慮もなく親しげに掛けられる声。
思い出してくれと切実に、けれど率直に言うことができる立場。
壁に隔てられた所で、それ以上近付くことができずに伺うことしかできなかった己。
誰かを、何かを羨むなんて。快斗は一度だって経験したことはなかった。
悔しくて。
悲しくて。
苦しくて。
痛くて。
渦巻き犇めき合って、心がどうにかなってしまいそうで。
自分の中に、これだけの感情があったなんて快斗自身驚いた。
「……思い切りを…つけないとな」
快斗には確固たる信念が在る。
果たせなくば、下等な犯罪者に成り下がってしまう。それは、新一が好きになってくれた姿とは程遠いもの。
新一を失うことは、心の半分どころか殆ど全てを失ってしまったと言える。それでも、快斗は自分に課した役目を成し遂げるまではどうしても強くあらねばならない。
このまま現実に目を背け想いの中に閉じこもって、生きていくことはできないから。
「気になることもあるし…」
ゆっくりと身体を起こして、ため息とともに呟く。
まるで言い訳のようだと自覚しつつも、自分を奮い立たせるために必要だから。
白み始めた空は、3日前と同じ色に見えた。
暗闇の中でも、強い輝きを放つ蒼い瞳。
茫洋としたものから、怜悧なものへと摩り替わる。その変貌に息をのんだ。
そして、改めて好きだという想いが心の奥底から湧き出てくる。こんな鋭い眼差しで見つめられようとも、諦めきれる恋ではないと。
固い表情、射抜くような視線からは何も読めない。
じっと伺うように見つめてきて、身体は強張らせている。
怖がられても当然のことで、ショックを受けるのはお門違い。
何より、こういう態度は覚悟していた。
せめて傷つけるようなことはしないと告げて、安心させてやるべきか。
そう思った時。
蒼い宝石がこぼれそうなほど、瞠目して。
「…キッ……ド…?」
小さな声が、確認するかのように囁いた。
「キ…ッド…だよな?」
敵意も嫌悪もなにもなくて。
「……ああ」
応えを返すと、あからさまに身体から力を抜いた。
その変化に、愕然としつつも胸に淡い期待を抱く。ほっとしたように息を吐くから、さらに煽られていく。
「気配を消して…黙って座ってるから。ビックリしたじゃないか」
さっきまでの甘い声ではなかったけれど。それでも、いつも相対していたときの鋭い口調とは違う。
「悪い」
「いや…まさか居るなんて思ってなかったからさ。わざわざ送ってくれたのか」
何事もなかったかのように。でも何事もなかったのなら、変わるはずもない態度。
許されているということなのか。あんな滅茶苦茶なことを突然仕掛けたというのに。
「……他に、文句はないのか?」
堪らずに訊いてしまった。
一瞬、呆気にとられたような顔をして。それからクスリと笑った。
「オマエがあんなこと、悪ふざけであってもするはずがないし。真剣だったのは瞳を見ればわかるさ。それに…」
「それに…?」
「オレが、嫌じゃなかったからさ」
受け入れてもらえた瞬間。
恋が始まった瞬間。
そして、永遠を夢見てしまった、瞬間。
快斗は白い扉を前に、拳を握り締めた。
今度もまた、そうすることで圧し掛かってくる恐怖をどうにか振り切ろうとしていた。
あの時は、新一の口から拒絶の言葉を聞くのが怖かった。
図らずも箍が外れてぶつけてしまった想いを、否定されるのが恐ろしかった。
どんなに生死を賭けた闘いですら味あわなかった恐怖だと、後になって思ったけれど。
現状の方が、あの時よりもずっと倍増している。比べ物にはならない。
新一はなんと言うか、大よその見当はついている。だから言葉自体に怖さはない。
怖いのは、向けられる眼差し。
側についていた志保は今はいない。
朝の巡回時間も終わっているから、入院病棟に人気はない。
だが、いつ誰がくるかわからないから、愚図愚図してはいられない。
快斗は深呼吸をして、そっとドアノブに手を掛けた。
気配から眠っているのは知れたから、躊躇せずに病室へと入る。
簡素なパイプベッドに静かに横たわっている新一。
音もなく傍らへと、足を進めた。
「…っ」
顔を覗き込んで、快斗は思わず声をあげそうになる。
青白い面、痩けた頬。
苦痛を滲ませた眉間、神経質そうに震える瞼。
普段から細く華奢なのに、それよりも一回り小さくなっている。
最後に逢ったのは、一週間ほど前。
月明かりを浴びた姿は、今でも瞼に焼き付いて離れない。今まで見た中で一際美しく、輝いていたから。
たった数日で、記憶がないことがどれだけ新一を苦しませたのか。あまりにも顕著で、快斗は自分自身が情けなくなる。
自分の苦しみ、悩みなんて、新一には敵うべくもなく。苦痛を感じるのすらおこがましく思う。
迷いながらも、手を伸ばす。
包帯の巻かれた額、そこに掛かっている髪を軽く払う。
息を詰めて見守るが、何ら反応は返ってこない。
指に絡めて、前から後ろへと梳く。
意外に触れられるのが好きで、目を瞑って無言の催促をしてくるくらい気に入っていた行為。
いつもしていたように、やさしく続ける。
少しだけ、緊張がほぐれたような気がした。寄っていた眉間も、震えていた瞼も。表情さえも、やわらかく解かれていくような感じがする。
自分の手の感触を覚えていて欲しいから、そう思い込みたいだけかもしれない。
きっと、これが新一に触れられる最後になるかもしれないから、いい印象だけを心に刻み込みたいだけかもしれない。
(このまま…眠りつづけていてくれたら…)
この手を離さないですむ。
思ってはいけないことだとわかっていても、願ってしまう。
瞼が開く瞬間が、やはり怖い。
立ち止まっているわけには行かなくて、前へ進むために決心したけれど。
せめて闇に紛れてくるべきだったかと、思う。
それなら、新一の眼差しには影としてしか映らないから、自分自身を否定されたなんて思わないでいい。逃げ道を作れる。
(…バカな…ことを…)
弱気に取り付かれるなんて、そんなのは自分ではない。
何より、快斗はとても夜まで待てなかった。誰に会うかもわからない危険を孕んでいても、後数時間が我慢できなかったのだ。
それに、次に新一に逢うのは日の光の下でと決めていたから。
思考に嵌っていて、静寂に包まれた空間に響いてきたものが駆けてくる足音だと。快斗が気付いたときには、もう遅かった。
「工藤!元気か?今日は邪魔なヤツはおらへんからじっくり……」
勢いよく開かれた扉と共に、入ってきた男。
昨日の落胆もどこへやら、満面に笑みを浮かべて新一に近付こうとして。
快斗の姿を目に留めるや、眦を吊り上げた。
「お前、なんやっ?!工藤になにさらしとんねん?!」
胸倉を掴みあげにきた手を振り払って、快斗は咄嗟に口を塞いだ。
「静かにしろ。起きるだろう」
「ぐ…っ…はなせや…っ!!」
顔を捩って手を振り切ると、ギッと睨みつけてくる。表情をかえずに受け止めて、視線で外に出るようにと促す。
「ふざけんなや!お前こそさっさと工藤から離れんかい!」
「静かに!話なら外ですればいいだろう」
「なんでお前に指図されんとあかんねん!!」
どうしようもなく騒ぎ立てる男に、新一の眠りを妨げられたくなくて。快斗が力づくで外へ引きずり出そうとした時、志保が飛び込んできた。
「何をしてるの?!勝手に入るなって何度言ったら…!」
「ちゃ、ちゃうねん!コイツが工藤におかしなことしようとしてたんや!せやから…っ」
迫力に負けて言い訳をつらつら並び立てる男を、志保は一瞥すると。新一の様子を確認しようとした。
だが、その傍らに立つ男がいつもの相手ではないことに気付く。そして。
「聞いとんのか、ねぇちゃん!とにかくコイツ…を…」
返事のない志保を振り返って、忙しく動いていた口はぴたり留まる。
愕然とした風にみるみる見開かれる瞳。その志保の変異に、快斗も不審に思う。
いつも冷静沈着で、クールさが際立っていただけに。一体何が起きたのかと、志保の視線を追おうとして。
気付いた。
後ろに、引っ張る力。
弱くて、微かなものだけれど。
すがり付いている、何かを。
最初に目に入ったのは、白い手。
快斗のシャツに細い指を絡めて、懸命に握り締めている。
ベッドから乗り出すように、腕を伸ばして。
身体が痛むのか、眉根を寄せて堪えながら。
ひたと見据えてくる、キレイな蒼い瞳。
強い意思の輝きも、愛しさに満ちたあたたかさもなく。
不安だけを湛えた、揺れる眼差し。
だけどそこには、間違いなく快斗が映っていた。
≫next
02.07.23
|