『せ』 前編




 頭が真っ白になって一瞬何も考えられなくなる。
 我に返った時に最初に知覚するのは荒い呼吸音。
 そしてゆっくりと覆い被さってくる慣れた体の重み。
 着やせして見える体は肌を合わせると無駄のない筋肉がついていることを窺わせた。
 実際に見たことはないけれども。






「大丈夫か?」
 新一の背中に回したままの腕でひょいと体勢をかえ、彼は新一を胸に乗せ問いかけた。
 それに答えることはなく新一はまだ整わない呼吸を繰り返す。
 そんな新一を宥めるようにそっと撫ぜられる背中。
 ああ、そういえばさっきも爪を立ててしまった。
 背中に感じる優しい感触にぼんやりと新一は思う。
「なあ」
「なんだ?」
 かけた声には直ぐに穏やかな応えがある。
 それに流されて無意識に口から零れ落ちてしまった言葉。
「オレとお前の関係って……?」
 いつもはあんなに頑なにこの胸にしまっていたのに。





 何故そんなことを言ってしまったのだろうと思う。
 背をなぞる手のひらがあまりにも気持ちよくて。
 促す声音がとても優しく感じて。
 彼から直接伝わる鼓動に意識を預けてしまっていたのだろうか。





「コイビト……じゃないよな、残念ながら」
 お前、1度も俺の好きだって言葉に返事くれないもんな。
 哀しそうな様子も見せずにあっさりと言い切る怪盗を心の中でだけ罵倒する。
 そんな風だから彼の告白を信じることなどできないのだと。


 好きだと彼は言う。
 会うたび、抱くたび。
 けれど逢瀬はいつも夜。
 抱くのは月も締め出した真っ暗な室内で。
 偽りの姿しか知らない怪盗のことを信じろなんて……。




「じゃあ、何なんだ?」
「お前はどう思ってる?」
「……何だろう」
「じゃあ、ヒントやるよ。最初の一文字は「せ」。お前との関係、今はこうだと思ってる」
 クスリと悪戯めいた笑みの気配がして、いつの間にか移動していた手が新一の髪を透く。
「せ?」
「ああ、後は自分で考えな。答えを貰うのは嫌なんだろ?」
 以前、真実は自分で掴み取るものだと言ったことを示唆しているのだろう。
「……分かった」
「――さ、もう寝ろよ。って、こんな時間までつき合わせた当人が言う台詞じゃないけどな」
 そう言って怪盗は新一を抱き込んだまま上掛けを引き上げた。
 ピロートークの時間は終わりらしい。
 こうなっては怪盗はもう相手をしてくれない。
 新一は大人しく目を閉じた。
 再び目を開く頃には既に傍にはいないだろう怪盗の温もりを感じながら。











 それから。
 ずっと新一は考えている。
 家でも学校でも。
 朝も昼も夜も。
 さすがに事件現場では起こったそれに対して意識が集中していたが、それ以外の場所ではふと気がつくと怪盗の残した言葉を反芻している探偵がいた。


 今も楽しくもない授業中、新一は担当教師の説明を聞くでもなしに教科書を開いている。
 意識は他に流されがちだ。
 窓の外を眺めて青い空を見るだけでも夜を翔る怪盗を思い出してしまう始末。
「他にないよなあ」
 怪盗を思い出して、怪盗の残した言葉を思い出して。
 そうして机に頬杖して溜息をつく高校生探偵がいた。

 怪盗の残した最初が「せ」で始まる言葉。
 すぐに思い当たったものがある。
 その単語に思い当たって、何故か胸のうちがモヤモヤして。
 悪あがきのように検証してみたけれどそれは思いついた単語を裏付けるだけのものだった。


 ひとつめ。怪盗と探偵の夜の関係はなし崩しで始まった。
 ふたつめ。怪盗は訪れると探偵に好きだというようになる。
 みっつめ。しかし怪盗は探偵に自分のことは話さない。
 よっつめ。そしていつも抱かれる時は真っ暗で素顔も見せない。
 いつつめ。朝が来ると必ずいなくなっている。


 はじき出される答えの正当性に目を逸らしたくて、でも真実を追究するのが性である探偵にそれはどだい無理な話。
 かくして最近の新一はふと気づくと怪盗を思い出し、知らない内に溜息をついているのだった。






 不意に前方に何かがやって来て視界が遮られる。
「新一、もう授業終わっちゃったわよ」
 かけられた声の主を見遣ると腰に両手をあてた幼馴染が呆れた表情をしていた。
 周囲を見回すと既に半数が席を立っている。
 ……授業は終わったらしい。
「なんだか最近ボーッとしてるみたいだけど大丈夫なの?」
 もそもそと教材を片付けていると心配そうな蘭の声。
 ふとコナンであった頃の思い出が懐かしさと共に蘇り、すぐに出逢った怪盗を思い出してしまい慌てて打ち消した。
 この場でこれ以上溜息をつく訳にはいかない。
「平気だ、何でもない」
「そう?また変な事件に関わってるんじゃないでしょうね」
「そうじゃねーって」
「ならいいけど……。じゃあ私部活に行くから」
「おう、頑張れよ」
 何度繰り返したかも分からないようなやり取りを今日もして、新一は幼馴染と昇降口で別れる。




 ふとした瞬間無意識に出る溜息をおさえつつ新一は駅までの道のりを歩いた。
 隣に心配性の幼馴染がいないのは助かるが、反面ほかに気を紛らわすものはない。
 途中の横断歩道で止まって、ボーッと空を見上げる。
 空は灰色の雲に覆われていて、自分の心を表しているかのようで余計に気が滅入る。
 周りが歩き出すのに流されて青色の信号を渡ると、新一の心がふと何かに惹かれた。
 その何かを捕まえるべく辺りに視線を巡らせて、次の瞬間新一は大きく目を見開いた。

「う、そ……」
 呆然とした口から零れ落ちたかたまりを聞きとがめたのかどうか、視線の先の人物が新一を見つける。
 一瞬だけ同じ様に見開かれた視線は次いでその失態を取り返すかのように他へと流れた。
 けれどその短い間に自分に向けられた視線の色は。






 ―――こんな出会いは望んでなかったって?






 驚きと狼狽と。何よりもその目が失敗したと言っていた。
 出会う筈じゃなかった、見つかる筈じゃなかったと。
 呆然としている間にいつの間にか彼らの姿は消えていた。
 新一はゆるりと首を回し消えた方向を見遣る。
「オレも、会いたくなかったよ」
 可愛い女の子と屈託なく笑いあう昼間のお前になんて。
 鼻の奥がつんとして新一は思わず空を見上げた。
 タイミングを計ったように厚い雲から雫が落ちてきてもう笑うしかない。
 こんなところでこんな出会いをして、何故かショックを受けて雨が降ってきて。
 色々なことが重なりすぎて自分の心が追いつかない。
 新一はクスクスと訳もなく笑いながら雨の中をフラフラと歩いた。






 結局何も考えられないままフラフラと歩き続けた新一は気づいた時には電車にも乗らないまま自宅の前まで来ていた。
 当然ながら傘も差さずに歩いていた彼はずぶ濡れで、家につく頃には制服から水が絞れるくらいに濡れ鼠だった。

「あ、うち……」
 知らない内に到着していた自宅に少しだけ冷静になって新一は家に入るなりシャワーを浴びることにした。
 濡れた制服を脱ぎ捨てバスルームへと移動する。
 シャワーを調節して勢いよく出していると次第に湯気を帯びて温水が降り注いできた。
 ぼんやりとその中に体を突っ込む。
 噴き出す熱い滝に少しずつ強張った体がほぐれていく。
 それと同時にゆっくりゆっくり心も解きほぐれていった。


「きっど……」
 新一は彼の名を口にしてみた。
 ああ、そうだ、先程出会ったのは昼の姿の彼。
 本来の彼はあんな風に屈託なく笑うのか。
 楽しそうな口調と楽しそうな笑み。
 隣には可愛い女の子。
 ああ、彼女、なのかな。
「そ、っか」
 やっぱりそうだったのか。

 俯いて右手を壁に当てて体を支える。
 何だか倒れそうな気がして。
 ショックを受けているんだろうか。
 でも最初から分かっていた筈なのに、どうしてショックを受けるんだろう?
 好きだとは言っても自分のことは何も話さない怪盗の告白なんて嘘だって分かっていた筈なのに。
 何で、こんなに……!

「ぅ……」
 我慢して我慢して、そしてとうとう新一は諦めた。
 この感情に他の名前をつけることを。









 温かい雨の中、自分の頬からも同じ様に伝う雨が止むまで、じっと新一はそうしていた。


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