いま、ひとり /scene.10
帰ってくるのは、いつ?
もう帰ってこないとか、ずっとむこうで暮らすとか。
そんな応えが返ってくるかもしれなくて、訊けなかった。
言葉を飲み込んで、口をつぐんで。
拳を握り締めて、下を向いて。
ほんの数秒だけ、心を落ち着ける時間が必要だった。
部屋から出て行く後姿を、ちゃんと見送れるように。
そっと深呼吸をして顔を上げると、やさしい瞳が待っていた。
ふたつの季節が過ぎたらね、帰ってくるよ。
春先の約束。
だから帰ってくるのは、夏の終わり。
あと一月ちょっと、待たなければいけない。
今は、遠く遠く離れた異国の地にいるひと。
夢で求めたぬくもり。
記憶で辿った声。
幻に縋った、やさしい感覚。
背後からゆるやかに、けれどしっかりと抱きしめている者が誰かなんて。
後ろを振り向かなくても、誰何しなくても、新一にはわかる。
こんなに馴染む気配は唯一人しかいないから。
苦しさや痛みを、一瞬にして昇華できるのも唯一人だけ。
新一は、ゆっくりと耐えるように閉じていた瞼をあげる。
目の前には、蹲るように地面に座り込む男。
視線を下げると、力強い、けれど長くてきれいな指先が、布地に溶け込むようにある。
強張っている体――手を動かして、新一は胸の上のそれに触れた。
直接感じる人肌は強烈で、瞬間にして全身にしびれるような感覚をもたらす。
漲る安心感から、張り詰めていた神経がすっと緩和していく。
指先は、いつの間にか強く握り締められていた。
力を込めれば、応えるように力を込めてくる。
ただ新一を驚かせないように、現実を受け入れるのを辛抱強く待っていた。
凍えていた心が、息吹を取り戻す。
どうして今ここにいるのかなんてことよりも、もっともっとぬくもりが欲しくなる。
やさしい眼差しに見つめられたくて、新一はしっかりと手を握り締めたまま後ろを振り向こうとした。
けれど、その時。
「なに……さらすんや…ッ!」
咳き込みながらも腹を抱えて立ち上がった男の顔は、苦痛と憤怒の表情が入り混じって凄まじい様相を見せている。
地を這うような声に、新一は身を竦ませた。
まだ、終わりではなかった危惧の念。
新一は、今感じているぬくもりも安穏も、太刀打ちできないほどの恐怖を覚える。
逃げ出したくても、足は地面に縫い付けられたように動かない。
「そうか…っ!お前のせいなんやなッ工藤がヘンになったんわッ!!探偵の仕事をほかすようなことさせよって!あげくに真実から目を逸らす情けないヤツにしやったんわっ!!」
「…や…めろ…っ」
慄く唇が、弱々しい声を紡ぐ。
黙らせないと、抱きしめてくれているこの手を失う。
失いたくないからこそ、差し伸ばされた手を拒否し、探偵として頑張ってきたのに。
高校をやめて人との関わりを断っても、どんなに体が辛くても探偵であることだけは必死に守り抜いてきた。
生まれて初めて得た、失いたくないものだから。
探偵だからこそ出逢い、探偵だからこそ愛してくれているひとだから。
同じ探偵である者の言葉は、きっと誰が言うより正しものであり、決定的な鋭さを持つ。
早く黙らせないと―――。
新一は頭ではわかっていたが、混乱をきたした感情は言うことを聞かなかった。
容赦ない刃は、振り下ろされる。
「工藤が探偵できへんかったら工藤やのうなるんやでッ!それなのに今は名探偵いわれよった影も形もあらへんっ!学校やめて家に閉じこもって!そんでこんなん痩せ細って!探偵の仕事もようせんっ!みっとものうて情けのうて、嘆かわしいわ!お前は工藤を滅茶苦茶にするばかりや!俺が探偵としてきっちりやり直させるさかい引っ込んで――」
「やめろっ!」
ようやく出た声も、間に合わなかったせいで悲鳴にしかならない。
全てを知られてしまって、新一はガタガタと身を震わせる。
「どないしたんやっ!工藤新一ともあろうもんが…!そんなん工藤やあらへんでっ!」
「やめ…ろっ!」
新一は耳を塞いで、固く目を閉じる。
もうなにも聞きたくなくて、なにも見たくなくて。
そして、離れていくぬくもり。
ついにあたたかな腕が体からとかれ、新一の心は絶望でいっぱいになる。
たったひとつ自分が求めた存在を、失ってしまう残酷な結末。
激しい虚脱感。
決別の言葉を受け入れないために耳を覆った手も、滑り落ちそうになる。
けれど届いたコトバは、予想とはまるで違う。
「バカじゃねぇの、アンタ」
新一の焼き切れそうな神経を、繋ぎとめた声。
背筋がゾクリとするほどの冷たいそれは、今まで聞いたことのないものだった。
「な…なんやと…っ?!」
「聞こえなかったか?バカ、だと言ったんだ」
気圧され畏縮したことを取り繕うように、声を荒げた男。
それに一瞥をくれると、新一の前に回りこむ。
耳を塞ぐ手に、手を重ねて。やんわりと握り締めて耳から離させる。
固く閉じた瞼にキスをおとして。震え続ける体を宥めるように、何度も繰り返す。
「な…ななな、何やっとんのや…ッ」
唖然とした喚き声を打ち消すように、新一の好きなやわらかい声が静かに響いた。
「新一」
凍えた心は、一瞬にして強烈な熱に包まれる。
胸は高鳴り、頬は紅潮していく。
初めて呼ばれた、自分の名前。
それなのに、いつも耳元で囁かれていたような感覚を得る。
『名探偵』と呼ばれたときはひどく心が安らいだが、今は燃え上がるような狂おしさしかない。
恐る恐る瞼をあげて、新一はやさしい眼差しを求める。
「…か…いと…」
安らぎを齎す夜の大気を凝縮した藍色の瞳。
かつてのまま、何ら変わりなく新一を見つめてくる。
微笑みも同じ。
でも、やはり胸はトクトクと激しく鼓動し続ける。
「新一」
胸の奥を掻き乱されるなんて、いつも穏やかな気持ちにさせてくれる声なのに。
そんな新一の戸惑いを知ってか、快斗はそっと背中を撫でてくる。
月日の流れを現すように、触れてくる掌は少し大きく新一は感じた。
顔つきも、さらに自信に満ち溢れていて精悍さを増している。
「よく、頑張ったね」
蒼い宝石が零れ落ちそうなほど、見開かれた瞳。
差し伸ばされた手を受け取らなかった。そのいい訳にした高校もやめて、探偵の仕事を遠ざけるようなこともしたのに。
快斗は、新一がどういう状況だったかを全て踏まえているのだろう。それでも、責めるでも怒るでもなく、やさしく労る。
「……だ…って、…オレ……オレは…もう…」
探偵ではないと断言された。
快斗が望んだ"名探偵"ではない。
そう綴ろうとした新一を、快斗はやんわり抱きしめる。
「頑張ったよ。学校だって一生懸命通っただろ?限界まで頑張って、もうどうしても駄目だって思ったからやめた。探偵の仕事も頑張った。毎日、目を覚ましてご飯を食べて眠って、ちゃんと生きようとした」
「な…に言うとんねん…!そんなん誉められたことやあらへんでッ!当たり前のことやんかッ!第一、なにもせえへん無気力な生活のどこが頑張ったやなんて――」
びくりと身を竦ませた新一を、快斗はより深く抱きこむ。
そして、発せられた声は先程以上に冷たく険しいものだった。
「また頑張るためには休むことだって必要さ。それとも、アンタは食事も睡眠もなしに働き続けられるのか?」
「なんやて…?そんなんできるわけないやんかっ!メシも食わんで寝もせえへんかったら死んでしまうわ!」
「心だってそうだ。体と同じに休息は不可欠なんだよ」
「そんなんちゃう!お前はただ工藤を甘やかして弱らせてるだけやんかッ!そんなん間違いやッ!!」
「じゃあアンタは、どんなことがあっても愚痴ひとつこぼさずに、どんなに疲れても誰の手も借りずに生きていけるのか?たった一人で他人のぬくもりも欲せずに、泣き言も言わずにそうやって死ぬまでいられるのか?」
「……な、なんで俺の話になるんやっ!今は工藤の話やろ!工藤は探偵やさかい、そんな情けないことではあかんねんッ!!」
言い淀んで、形勢の不利に喚き散らす男に。
快斗は口の端を上げて、微かに嗤う。新一には決して見せない、顔で。
「自分にできもしないことを人に強要するんじゃねぇよ。大体、自分の人生は自分自身のものなんだ。どう生きようと他人にあれこれ言われる筋合いはない」
「お、俺は工藤のために正しい道を…!」
「アンタの正しさなんてものに付き合ってたら、お先真っ暗じゃん。自分自身を殺さなきゃなんねぇんだから」
「ふ…ふざけんなッッ!!お前こそが工藤を殺したんやっ!探偵やあらへんようにして、工藤の人生そのものを奪い取ってんやあらへんかッッ!!」
「だから、バカだって言ってんだよ」
一度も声を荒げるでもなく、静かに言い放つ快斗のコトバはどれも新一にはやさしいもの。
心に突き刺さっていた棘も、今まさに突き刺さろうとしている棘も、もう新一を傷つけはしなかった。
快斗の胸に手をついて体を起すと、真っ直ぐに藍色の瞳を見つめる。
快斗はもう興味はないとばかりにさっさと会話を打ち切って、新一の蒼い瞳に視線を合わせる。
「あのさ、探偵っていうのは、あくまで新一の一部でしかあり得ないんだよ」
「いち…部…?」
「そう。探偵って部分が新一の全てをつくっているんじゃない。新一の一部が探偵っていう要素をもってるだけなんだ。だから、休みたければ休めばいいし、別のことをしたいって思えばすればいい。なんてったって、新一は何でもできる可能性を秘めているんだから」
真っ直ぐに未来を見つめているひと。
新一にも、広がる未来があると教えてくれている。
「…探偵…じゃなくても…それでも、オレは…快斗の側にいて…いいのか?」
「なに当たり前のこと言ってんの。第一、オレが離しはしないよ」
「だって…快斗は"名探偵"って…そう呼ぶのが…好きだろ…?いつも、それでしか呼ばなかった…」
疑うわけではないけれど、一度だって名前を呼ばれなかったから。この際、心に引っかかっていたこと全てをぶつけてしまいたい。
そんな新一に、快斗は驚いた顔をする。
「それでしか…って……オレ、ちゃんと名前で呼んでいたよ?」
「え…?うそ…」
「ホント」
快斗の驚きに、新一も目をぱちくりさせる。
呼ばれた記憶なんて、幻にですら覚えはない。"名探偵"と呼ばれることに固執していたから、呼んで欲しいなんて望みも持たなかった。最初から、諦めすらあったくらい。
「いつ?どこで?」
真剣そのものの新一に、何故か快斗は深くため息をついて天を仰いだ。
「そんなに、オレって印象薄いのかな〜?」
「な、なにが?」
思いもかけない言葉に、新一はひどく焦ってしまう。
そんな新一に、快斗はくすっと笑った。
「ベッドの中で、だよ」
「ベッドの中?…って…」
意味がわからず首を傾げた新一に、快斗は顔を寄せる。
「わからない?」
耳を掠めた熱い吐息に、一瞬にして新一の顔は真っ赤に染め上げられた。
名前を呼ばれた時の胸の高鳴り。強烈な熱を感じたのはどうしてか。
記憶以外の符号はそろっていて。けれど言われてみれば、その通りであることは、蘇った断片的な記憶が告げてくる。
溶け合って交じり合った熱の記憶は、嬉しいけれど恥ずかしくてたまらなくて。
「あっ…そ、そんな…だって…!オレ…っ…」
慌てふためいて、半ばパニックになっている新一があまりにもかわいくて。
快斗は熱く火照っている頬を包み込むと、久しぶりの口付けを交わしたのだった。
「いい加減にしてほしいのだけど。何時まで待たせられればいいのかしら?」
突如として割り込んできた声に、熱に浮かされて夢うつつだった新一は俄かに正気を取り戻す。
眼前には端正な顔がにっこりと微笑んでいて、艶やかに赤みを増している唇に釘付けになる。
力の入らない体は、力強い腕がしっかりと支えていて自力では立っていない。
「大丈夫?」
「あ…っ」
痺れた体は快斗のキスのせい。
いくら久しぶりだからとはいえ、失神しそうになるなんて。殊更、真っ赤になった新一の背を、快斗はやさしく擦る。
「ちょっと、黒羽くん。気付いているくせに、無視し続けるなんていい度胸よね」
再び聞こえてきたその声に、新一はぼんやりとする頭をそちらに向ける。
頭の上、高架橋からこちらを見ている一人の少女。
「ごめん、哀ちゃん。ちょっと取り込んでいたもので」
悪びれもせずに、にっこり笑って言う快斗。哀は肩を竦めてみせた。
「な…んで……灰原が…ここに…?」
「使いっ走りよ。黒羽くん」
新一の問いかけに端的に応えると、哀は白い封筒を放り投げる。
きれいな放射線を描いて、快斗の手に治まった。
「一応、何かあった時の処方もその中よ。薬の調合はできるわね?」
「ああ」
「のんびりしていられる時間なんてないわよ。タクシー、そこに止まっているから」
「ありがとう」
哀のコトバに、新一は眉を寄せる。
快斗が帰ってくるのは、夏の終わり。
だから、帰ってきたわけではなかったということ。
側にいてもいいと言ってもらったばかりなのに、快斗はまた行ってしまうのだ。
あの時は、平静を装って見送れても、今はできるかどうかわからない。
たった今、あんなに熱を分け合ったのに。急速に冷えていくのを感じる。
唇をかみ締め俯いた新一の肩を、快斗は抱き寄せた。
「ほら、新一。行くよ」
「……え?」
「急がないと、飛行機に乗り遅れるからさ。わぁ、ちょっとマズイかも」
腕時計を見て足を速めた快斗に、わけがわからずに新一は引っ張られていく。
「ちょ…快斗?どういう…」
「のって」
道沿いに停車しているタクシーのドアを開けて、新一に乗るように促す。
その後方で。
「黒羽くん、わかっているでしょうけど。新婚旅行のお土産は、本来のお土産とは別枠よ。もちろん、私の好みもわかっているわよね?」
「ヴィトンのグラフィティ・ラインのシリーズだよね。ホリゾンタルとアクセサリーポーチ」
「それとエルメスのチョーカーと新作のスカーフ。空港の免税店で買うなんてセコイことはしないでね」
「OK、じゃあね」
「気をつけて」
快斗が乗り込むと、自動ドアが閉まる。
窓の向こうには、手を振る哀と、呆然と座り込む男の姿があった。
「成田空港までお願いします」
運転手にそう告げた快斗に、新一は詰め寄る。
「快斗!見送りなんて、オレはしない」
「違うよ、新一も一緒に行くんだよ」
「行くって…どこに?」
意外な返答に、戸惑う。
「パリだよ」
「パリって…だって外国、そのパスポート…」
「は、ここ」
哀に渡された白い封筒を、快斗を示す。
用意周到さは身に染みて知っているのに、新一はそのことを再認識する。
「灰原と…連絡、取り合ってたのか?」
一時帰国したのは、他ならぬ自分のためだと新一はわかっている。
そして、パスポートを渡しに来た哀。
彼女が、新一のことを快斗に告げたからこそわざわざ来たのだろうか。
「哀ちゃんには、こっちに着いてから頼んだんだ」
「じゃ…なんで…」
あんなにタイミングよく現れることができたのか。
苦しくて辛くて、逃げ出した時に。快斗が用意してくれていた部屋のように、両手を広げて包み込んでくれるなんて。
「新一があのマンションに来たからだよ」
「来たって…どうしてそんなこと…」
「ちょっと、仕掛けを」
ドアを開ければ、シグナルを送ってくるようにさ。
何事もなく快斗はそう言うが、どれだけ新一には嬉しいことか。
あの部屋に新一が行くとすれば、それがどんな時か。やはり、快斗はわかっていたのだ。
自分のことを理解し、受け止めてもらえることの喜び。
シートの上にある快斗の手に、新一は自分のそれを重ねる。
ぎゅっと握り返してくれるのに、もう絶対にこの手を離したくないと。そう新一は思った。
「そういえば…パリとの時差は8時間で、飛行時間が11、2時間…くらいだよな?」
「そんなとこ」
「…ってことは…」
現在真昼時で、成田からタクシーでは1時間半ぐらい。逆算すると、新一があの部屋へ来た直後、快斗は飛行機に乗ったことになる。
「大丈夫…なのか…?」
とんぼ返りしなければいけないくらいだから、予定があったとしても不思議ではなくて。少しばかり不安になった新一に、快斗は実にあっけらかんと言ってのける。
「大したことないよ。リハとプレパーティーをサボッただけだから」
「な…っ?!」
「で、今夜がショー」
とんでもない事実に、新一は頭を抱える。
「あれ?もしかして新一、オレの活躍知らなかったの?こっちでもずい分マスコミに取り上げられているはずだけどさ」
「…………」
新一は首を激しく横に振る。そこのところからも新一の生活の程が伺えたが、快斗は何も追求しなかった。
「飛行機が予定通りに着けば、開演までは2時間あるから大丈夫だよ」
「だ、大丈夫…って、まる一日飛行機乗りっぱなしじゃないか…!そんなにまでして来なくっても…!」
自分の将来を台無しにするような、そんなことを。
「オレにとって大切なのは新一だから。何をおいても最優先するのは当然だよ」
もちろん、一日ズレていたとしても。
「ショーをすっぽかしても、か?」
「当たり前。新一さえいてくれたら、それでいいんだ。新一だってそうだろ?」
「オレ…?」
探偵が全てだと思っていたのは、快斗が探偵でいる限り側にいてくれると思ったから。
新一のそんな心の裡を読んだ快斗は、にっこりと微笑む。
「新一が、何より優先すべき大切なことって、何かわかる?」
「なに?」
新一の腰に手を回して。
ぴったりと体をくっつけて。
「か、快斗!」
ふたりだけでないことに焦る新一のために、運転手からの死角のところで。
唇を微かに触れ合わせて、囁いた。
「オレを、愛することだよ」
end
01.10.17
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