狙っていたのは二つの銃口。
至近距離と遠距離。
数メートル先からと、数十メートル隔てた別の建物から。
命中率が確実ともいうべき至近距離の方を避けるべきだなんて、思わなかった。
確実に命を奪う目的でいる者に対し、自分の力を知らしめるためだけに向けられた銃なんて児戯だ。
左肩を撃ち抜かれながらも、空中に飛び立った。それを追いかけるようにして放たれた鉛玉が、脇腹と羽の支えを掠める。
バランスを崩し急降下していく背後で、高らかに何かを告げる声を聞いた。
墜落は免れたものの、着地した時の凄まじい衝撃は被弾した身体には相当堪えた。
しばしの休息を取らないことには、どうにも身動きできそうにない。身を隠すことができるかどうかは二の次で、人気のない狭い路地へと入り込む。
途端に意識は混濁しはじめ、マズイと思ったときには闇にのまれていた。
凍えそうなほど寒いのに、左肩と脇腹は焼けるように熱い。
それが急激な出血と被弾のせいだとわかっていても、意識を覚醒に向かわせるには至らない。
このままここで朽ち果てるわけにはいかないのに。銃撃を受けたぐらいで一体何をしているのだろう。
まだ捕まることも死ぬことも許されないのだ。だから、早く目を覚まさなければ。
必死に闇の中で足掻いていた時、感じたぬくもり。
寒さも熱さも霧散してしまい、心地よさだけに支配される。そして、意識は誘われるように浮上していった。
ぼんやりとした視界が最初に映したのは、白い手。
細く繊細な指先を辿り、持ち主を捉える。
目覚めたはずなのに、夢の続きを見ているようだった。
自分のほうが傷を負ったような痛いカオをして、懸命に止血をしてくれているヒト。
どうしてこんなところにいるのだろうか。
どうしてこんなことをしてくれているのだろうか。
当然のように浮かんだ疑問は、やはり夢なのだと結論付けることで解消されるはずだった。
けれど、幻だと自覚しても消えることはなく。
布越しに与えられるぬくもり、吐き出される息はひどく甘く、確かな質感を伝えてくる。
意識は急速に現実を取り戻す。
手に入れることは絶対に叶わないのに、一時的に齎される至福。どんなことがあっても、このヒトと交わることがない人生だから、これ以上知ってはいけないぬくもり。
だから、脇腹の銃創へと伸ばされた手を退けた。
礼を告げて、蒼い瞳を独占している心地よさを振り切って。激痛に苛まれ身動きもままならなかったことを忘れて。
ただ早くこの場から離れなければと、祈りにも似た思いでいっぱいだった。
それなのに。
どうして自分から接触を持とうだなんて、愚かな考えに捕まったのか。
whiteday ballade
2
想いを伝えたいとか、伝わればいいとか。
そんなことを思ったわけではない。
彼の持ちものを期せずして手に入れたせいで浮かれていた。
この先どれだけの孤独が待ち受けていようとも大丈夫だと、自身を支えていけるお守りを得た気分だったから。
そして、過ぎた願いを抱いたのだ。
彼にも、自分の心のカケラを持っていてもらいたいと。そうすれば、何があっても戦い抜けるから。
そのために2月14日を予告日に選んだ。
駄目にしてしまったハンカチの弁償だから、他意があるなんて彼は思いもしないはず。
完璧な自己満足。
そしてもたらされた最悪な結末。
彼のほかに、多くの者が潜んでいることはわかっていた。
別にどれだけの者がいても、相手になどなりはしないから構わなかった。
躊躇せずに降り立って、馴染みの探偵と警官らにいつも通りに挨拶をした。
傍らの刑事から銃を奪って、撃ってくるのもいつものこと。
状況はこの前とは違うから、撃たれるはずはなく。適当に撹乱して、彼との用を済ませるはずだった。
「今日こそは僕のこの手で捕まえてあげますよ!」
狙いを付けられて、大人しく撃たれる謂れはない。
それは相手もわかっていたらしく、銃口は追いかけてきた。
引き絞られたトリガー。
銃撃音が鼓膜に響いた後、音なく倒れたのは彼だった。
「く…工藤くん…ッッ??!!」
彼は、少しだけ銃口の右前にいた。
けれど、自分と銃口をつなぐ線上からはずっとズレていた。銃を構えた者の腕前だって知っていたから、周囲に流れ弾はいかないと確かめた上で回避行動に出たのに。
倒れ伏した彼の下には、みるみる血溜りができていく。
信じられない光景に、誰もが呆然として。
彼の命が流れていくのを、見つめるだけ。
何も出来ずに佇んで。固まった思考は、冷静な判断を下せない。
必死になって彼は助けてくれたのに。
止血するということすら、思いつかなくて。
そして、今度も。
彼は助けてくれた。
いくら後悔しても、時を戻せやしない。
騒々しさは、もはや手のつけられない程にまで膨れ上がっている。
一体、ここがどこだかわかっているだろうに。常識が働かないヤツらには腹ただしくて堪らなくなる。
まだ外来受付の時間だから、不調を訴えてきた人たちだって入れずに困っているだろうに。そして、静かに療養している人たちも。
あの窓の、どこかにいる彼だって。
自分が目当てだとわかれば、誰より困窮するだろう。
何もできずに、ただこんなところから見ているだけしかできない。
見舞って詫びる勇気すら持ち得てないオレに、本当は誰をも責める資格はないけれど。
「……?」
風のせいではない枝の揺らめきに、建物に向けていた視線をやる。
境界線の垣根を無理に割って、入ってこようとしている様子に首をかしげる。別段、この公園は駅や大通りへの近道になりはしない。
何より、人々から忘れられたような場所へと足を踏み入れる物好きが自分以外にいるだなんて。
いつもなら興味を引かれただろうが、今は誰にも会いたくない。一旦、この場から去ろうと立ち上がった時。
「う…わっ…!」
強引に通り抜けようとして勢いのついた体は、こちら側が一段低くなっていたためにバランスを崩して地面に投げ出される。自分よりも小さく細い体が蹲っているのに、見ぬ振りをするなどできなかった。
駆け寄って行っても、起き上がる気配を見せない。左肩を抱え込むように痛みに耐えている人に手を伸ばす。
「大丈夫か?怪我したの…か…」
抱き起こそうとした手が震えた。
木陰のせいで、遠目でははっきりとしなかったが。まさか、という考えが瞬時に駆け巡る。
折れた枝葉を取り除けば、艶やかな黒髪に覆われた小さな頭が出てきた。
ゆっくりと持ち上がるカオ―――その、白い面に眩暈がする。
「く…どう……しん…いち…」
無意識に呟くと、蒼い瞳がまっすぐに見つめてきた。
腕にかかってくる、重さ。そして、ぬくもり。
どうにかなってしまいそうなくらい、頭の中は蒼一色に塗り固められ。驚愕のあまり、チラついて離れることのなかった赤い闇が払拭された。
「あ……悪い…」
ようやく痛みをやり過ごして、腕のなかから起き上がろうとする。その動きに、我を取り戻した。
左肩をかばう動き、倒れたときに傷を強か打ちつけたのだと知れる。
あの時の、あのキズ。
どれだけ苦しんだかは、ほっそりとした頬と肉付きがさらに薄くなっている肢体から一目瞭然。
こんな目にあわせたのは自分なのだ。
「なんか、みっともないとこを見せてしまったな」
肩を竦めて、失敗を笑ってみせる彼に鼓動は加速していく。
立ち上がるのに手を貸しながら、平静を保とうと必死でポーカーフェイスを装う。何でもいいから、彼に調子を合わせることを試みる。
「どうしてこんなとこから?」
「ああ、それは………オマエ、オレのこと知って…?」
ギクリとするが、仮にも名探偵と誉れ高い有名人だ。自分が知っているからと問題はない。
「そりゃ、な。アンタも自覚あるだろ?」
「まあ…あんなに騒がれれば…」
彼の顔が向けられたのは、さっき以上に喧騒としているここからは見えない玄関。
細められる蒼い瞳に、愚かな問いをしたことに気付いた。
「ちょっと怪我してさ。それをリークされたみたいで、マスコミが押しかけてきたから自主退院してきたんだ。で、見つからないようにここから出ようとしてドジ踏んだ」
苦笑する彼に、胸が痛む。
まだ入院していなければならないのに、自分がいれば迷惑がかかるからと勝手に抜け出してきたのだ。
退院したとなれば、マスコミが押しかける理由はなくなり病院は静けさを取り戻す。
やさしい人だ。犯罪者でも助けようとするくらい。きっと、この痛みとは比べられないくらいのものを感じてのことだろう。
まともに彼の顔をみれなくて、逸らしてしまった視線を誤魔化すように服についた葉っぱや泥をはたく。
「いいって、そんなこと…」
止めようとした手と、肌が触れ合う。
アツイ。
まだ肌寒い季節、外に出れば体温を奪われているはずが。
「アンタ、熱があるじゃないか!無理しないで戻ったほうが――」
「大丈夫。しばらくぶりに動いたせいだから。たいしたことはないんだ」
見つめてくる瞳、放たれる強い光。
魂がしっかりと絡めとられていく感覚。
あんなに恋してしまったことを悔いたのに、いとも簡単に彼に恋する瞬間に出遭う。
学ランの上に着ていたダウンを脱いで、羽織らせる。
慌てて返そうとするが、押しとどめた。
「いいから着てろ。カオも少しは隠れるから」
「…悪い」
タクシーを拾うために大通りへ向かう。大人しくついてくる気配に、ほっとした。
謝るのは彼ではない。こんな目に遭わせたオレのほう。
これぐらいで償いをした気になんかならないけれど。せめて今だけは、彼のためにできることをさせてもらいたかった。
「いい加減、その辛気臭い顔をやめてよね!ガッカリしてんのは快斗だけじゃないんだよ!みんなとってもかなしいんだから!」
ガッカリもしてなければ悲しくもない。
学校に来なくなったクラスメートは、何時の間にか英国へと逃げていた。週刊誌で事が公になると、学校に出された転校届。
警察内でのほとぼりが冷めるまで海外で謹慎しているつもりだったのだろうが、そうはいかなくなったことに喜びこそすれ残念だなどと思いもしない。
思い出すのは、一週間前に逢ったヒトのこと。
マスコミはまだ彼を追いまわしていて、連日のワイドショーでも話題にのぼっている。
沈黙を守り自らは何も語ろうとしない彼に、誰もが同情的であるのが救いだ。
(……少しは……元気になってるかな………)
タクシーに乗り込む足元は、ふらふらして覚束なくて。もし、マスコミが自宅にも押しかけているならば、ひとりで帰すことはできなくて。
何より、いつもの冷たく研ぎ澄まされた顔でなく、見ず知らずの他人に無防備ともいえる態度で接してくる彼が、ひどく危なっかしく思えた。
車の振動で、時折痛みに顰められる眉。
次第に高くなっていく熱に、朦朧としている意識。
自身で体を支えられなくなり寄りかかってきて、吐かれる苦しげな息遣い。
彼の重みを肩と、そして抱きしめた手が覚えている。忘れられるはずがない。
もしかしたら失っていたかもしれない、命の重みなのだから。
彼を苦しめた片割れは、社会的に抹殺されたようなもの。ある意味、強制的に責任を取らされた。
ならば、オレは……?
「ちょっと、あなた―――黒羽くん?」
呼ばれて、意識を思考から切り替える。
場所は正門の外。周囲はザワつき、注視されている。
視線をあげると視界に入ってきたのは、理知的で涼やかな美貌の女性。
「話があるのだけど、いいかしら?」
彼を送っていった時に、出迎えた人。
だから自分の役目はこれまでだと、彼を渡すとそのまま帰った。
鋭い目で見つめてきた彼女は圧倒的な雰囲気をもっていて、それが強く印象に残っている。
今だってそう。有無を言わせずに、さっさと踵を返して歩き出す。
名乗りはしなかった。
しかし、さすがは名探偵というところか。探偵の顔を見せなくても、きっちりと観察していたのだろう。学ランから、身元を割り出していたのだから。
静かで落ち着いたカフェで、向かい合って座る。
目の前には湯気のたつコーヒー。
「これ、返してきてくれって頼まれたの」
差し出された紙袋には、彼に着せたダウンジャケットが納められている。
「それで?」
「それでって?どういうことかしら?」
「目的だよ。これのためだけに来たんじゃないだろう」
わざわざ出向いてきた彼女。視線があった瞬間の、その瞳の色。
確認しにきたと、直感は告げている。
「率直なひとね。じゃあ、遠慮なく言わせてもらうわ。どういうつもりで工藤くんに近付いたのかを教えてもらいたいのよ、怪盗さん」
誰にも届かないように配慮はしているものの、その口調に迷いはない。
こうやって直入に相手の懐に飛び込み核心をつくやり方で、彼にまとわりつく不逞の輩を追い払ってきたのだろう。
「心配しなくても、二度と近付きはしない」
「あら、否定しないの?証拠もなにもないのにね」
「でも確信しているだろ。なのに、証拠云々と口先で誤魔化すようなことはしないよ」
「そう……ずいぶん潔いけど。それって罪悪感からなのかしら?」
さすがに聡い女性だ。痛いところをついてくる。
怪盗の現場にきて、キズを負った探偵。探偵が受けるはずだった銃弾は、本来怪盗へと放たれたもの。
彼女に責める様子はないが、傷を負わせた責任は間違いなくオレにある。
「コレを渡してくれないか」
ポケットから取り出した、ハンカチ。ずっと持ち続けていた、大切なもの。
「渡せばわかるのかしら?」
「ああ――――証拠だ」
「え?」
伝票を持って席をたつ。
後は、彼の判断にまかせるだけ。
彼が、怪盗の手当てをするために肩に巻いたハンカチ。
それに染み付いている血痕。
持っていたのは"クロバカイト"。
怪盗とオレを結びつける、まさしく証拠品だ。
証拠的には弱いかもしれないが、名探偵の力ならばどうとでもなるだろう。
まだ怪盗をやめる気も、捕まる気もないけれど。
償い方のわからないオレの、出した結論。
end
02.03.25
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