恭しく手をとって、指先に落とされる唇。
それが、アイツ流儀の挨拶。
触れ合っていなくても、相手の体温を十分に感じられるほどの距離。
いつしかそれが当たり前になっていた。
それなのに。
いつまでも縮まらない距離に、酷く焦れた刻。
「ヨカッタデスネ。モトニモドレテ」
まるで聞いたことのないような声で告げられ。
喜んでくれると思っていたのに、お得意のポーカーフェイスは決して崩れることはなく。
「ソレデハ名探偵、ゴキゲンヨウ」
白い翼を広げて去っていく後姿。
ただ呆然と見送るしかできなくて。
何故か混乱しているアタマ。
知らず知らずのうちに、胸を鷲掴んでいた。
恋 心
「………どうして…アイツは…ああなんだろ……」
深々とソファーに埋もれて、ぼんやりと天井を見つめている。無意識のうちに、考えていたことが口を突いてでたのだろう。
視線を文字に戻しながら、こっそりと肩を竦める。
「ああって何が?」
質問している気配を匂わせないで、さりげなく。声も囁くように、新一の無意識を誘導する。
「……素っ気なくて……会話だって挨拶程度……最近は…滅多に逢うこともないし……」
「そうね。でも、以前だってそんなものだったでしょう」
「確かに…そうだけど。それでも…色々助けてくれたし……スキンシップだって鬱陶しいくらいだったのに…」
沈んでいく声音に、哀は微かに眉を寄せた。
ここまでくれば新一が誰のことを言っているのかはわかったけれど、ちょっとばかり意外だったから。
「ねぇ、工藤くん。彼がそっけなくなったのって、あなたが元の姿に戻ってからかしら?」
「そう……一応、報告がてらにさ…あいつの現場に行った……けど……」
怪盗のライバルとしての探偵扱いすらされなかった。
どちらかというと、無視に近い状態。
あの時は、もしかしたら怪盗が不調だったからだとも思ったが。あれから何度現場で対面しようと、怪盗の態度は変わらない。
訳がわからないことなら、納得いくまで究明する。
いつもの自分なら、相手の胸倉を掴んででも問質すのに。
新一は、ただ見知らぬ怪盗に戸惑うばかり。
そして、戸惑うばかりの自分自身に苛立っていた。
「……別に気にしなきゃいいんだ………アイツがヘンだから…ってオレが悩むことなんかないし……」
お節介焼きなのはアイツの性分だったから、小さな体で必死に足掻いているのが見てられずに助け手をさし出して。
怪盗に対してライバル心を擽ることで、立ち止まることなく前を向いて歩けるように。戦い抜けるように。
それも、元の姿を取り戻せればそれまでの関係。
ヘンだっていうよりも、本当はあるべき関係に戻っただけなのかもしれないな。
怪盗にとって、邪魔でしかない敵。目的のためには排除すべき存在。
とめどなく続く新一の吐露に、哀は重いため息を吐いた。
言葉では怪盗と探偵という関係上、割り切っているような言い方だが、心は正反対。気になって気になって仕方ない。変わってしまった怪盗に混乱して、こんなに心を乱している。
そして、混乱している自分にさらに混乱するという悪循環。
そうでなければ、例え哀に対してであってもこうも無防備に気持ちを曝したりはしない。
(妙な症状に悩まされている人が、医師から病名を聞いて安心するってのと同じよね)
哀には、手にとるようにわかる新一の心情。
その、一般的な呼び方を教えてやることにした。
「あのね工藤くん。あなたは、あの怪盗さんに恋してるの。だから、そんなに心が苦しいのよ」
夜風に身を震わせながら、ビルの谷間に身を潜める。
吐く息は白く、肌もあわ立っている。
それでも、新一は寒さに意識を直結させることはなかった。
「もうすぐ…か」
白い月は美しい光に包まれて、闇に君臨している。
後少しで、あの月の下に怪盗は現れる。
予告状に書かれていた中継地点から飛び立つほんの瞬間だけ、だけれど。
新一は、その数秒のためだけにここにいた。
『恋…?オレが……アイツ…に……?』
『ええ、そうよ』
きっぱりと断言する哀に、ただただ唖然として瞠目するだけ。
だが、"恋"という言葉は心地よく心のなかに浸透してきた。
消化不良な気持ちは名前を持ったことで、暗号を解読していくみたいに理解できていく。
『…オレ……アイツのこと…好き…なのか……?』
どうして怪盗の態度に不安になったのか。何よりショックだったのか。
その理由はわかったが、すんなり納得はできない。それは、新一のささやかな抵抗だった。認めたくないと思う砦。
なぜなら、叶うべくもない恋をしていることになるから。恋していると知った途端に失恋だなんて、あんまりな現実に立ち向かいたくはなかったから。
「臆病…だよな…」
哀に対して意固地に首を振り続けたけれども、"恋"と名づけられた自分の心は、素直だった。
中継地点で怪盗をいつものように待ち伏せするつもりだったのに、足は動かなかった。
恐くなったのだ。
怪盗に拒絶されていると、はっきり目にすることが。
素気無い態度には、耐えられそうになくて。
今日は怪盗に対する気持ちを見極めるために、たとえ相手にされなくても対決するつもりで来たのに。
それなのに今はこうやって建物の影に隠れて、一目だけでも彼の姿を見ることで満足しようとしている始末だ。
「!」
静寂を破るサイレン。
夜空を振動させる爆音。そして、サーチライト。
咄嗟に、新一は月を仰ぎ見た。
力強く何をもにも屈せずに、圧倒的な存在感を刻み付け。
月の光よりもさらに輝きながら、闇を駆け抜ける白い姿。
「ああ……」
心の奥底から、湧水のように溢れ出てくる想い。
白い怪盗だけに向けられる、愛しさ。
心を誤魔化すことなどできなくて。
新一は、好きだという気持ちを自覚した。
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02.02.07
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