瞼に射す白い光。
ひんやりとした空気。
浮上していく意識。

ゆるやかに開かれてゆく視界。
引き付けられるように、傾ぐ顔。


「…あ……」

目の前には指の組み合った手と、手。
少しだけ大きな美しいそれに、しばし視線を釘つけられて。
ゆっくりと腕を辿って、持ち主へと辿り付く。

「……ゆ、め…じゃ…なかった…」

簡素な椅子に座ったまま、しなやかな四肢を窮屈そうに組んで、眠っているひと。
天空にあり決して手の届くことはない、月。
その月が降り立ってきてくれた、夢のような出来事。
一晩たって、夜が明け朝がくれば。消えてなくなっていると思っていた。
だから、眠るのが嫌で必死になって起きていようとしていたのに。やさしく触れてくるぬくもりに、簡単に眠りへと導かれた。

どうして、朝がくればいなくなっていると思ったのか。
消えてなくなる夢だと思ったのか。
何を恐れていたのかさえ、もうどうでもよくなる。

視線の先で睫が震え、瞼が開かれていく。
現れたやわらかな眼差しは、見上げる瞳に気付いて直ぐに合わせてくれた。

「おはよう」

吸い込まれそうになる、きれいな微笑み。
それと一緒にもらった言葉は、とても不思議な響きを持っていた。

「…も…いっかい…」

強請ってみると、怪訝な顔をすることなくさらに笑みを深くする。

「おはよう」

椅子から降りて、顔を近くにして囁かれる言葉。
やっぱりとても不思議な感じがしたが、ずっとずっとその言葉を聞いていたいと思った。











amnesia 10 











月明かりに照らし出された肢体は、白さだけが目に付いた。
染み一つない肌に手を這わせば、より白さがわかった。

深く愛し合った後は、幾分変わる。
四肢を投げ出し微睡む彼を、美しく飾るのは赤い華。
白さを際立たせる最も有効な手段であり、唯一許される方法。


それは快斗だけに与えられたことだった。





「…………」

新一の白い肌には、皮下出血のせいで青痣が至る所にある。
快斗が滑らかさを好んで、何をしない時でも常に触れていた背中は特に酷い。
階段から落ちた時の衝撃がどれだけのものだったか充分に知れて、思わず眉を顰めてしまう。だが、押さえ込んでいた怒りを新一に知られるわけにはいかなくて誤魔化すように言葉を綴った。

「触っても、大丈夫かな?」
「ん…もう平気」

ベッドの上に座り込んで上半身を顕わにした新一は、振り向きつつ頷く。
何気ない仕草であったが、ほっそりと伸びる項のしなやかさに快斗は思わず息を呑んだ。
前に触れた時からは一週間ほど、これまでの間隔としては短い方。
しかし、知り尽くしている肢体であっても、朝の光の中で見るのは初めてで。強いて意識しないようにと努めていたのに、怒りに駆られたせいで抑制は意味をなくしてしまった。

(…まずい)

特に、項から背中へと流れるラインは大のお気に入り。いつも唇を滑らせては、必ず痕をのこしていたところ。
視線は釘付けになって、今にも顔を寄せたくてたまらなくなる。

「どうか…した…?」
「あ、いや」

不安そうな声に慌てて意識を保ちなおすと、目の毒である項を隠すように持っているタオルをあてた。
途端にほっとしたように肩から力が抜けるのを見て、欲望に囚われそうになった自分を情けなく思うのと同時に戒める。


朝の巡回に来た医師が一通りの診察を終えると、湿布の張替えをしようとした。昨日まで体が痛んだために大人しくされるがままになっていたのか、自由に動くようになった手は看護婦の動きを制した。
「やってもらうからいい」
そう告げると、伺うような瞳で快斗を見てきて。だから、驚いてどうすればいいか戸惑う看護婦らを快斗は適当に取り成して早々に病室から追い出した。
何より誰にも触れさせたくなかったから、新一の態度は嬉しかった。
「先に…からだ…拭いて欲しいんだけど…」
包帯を解いて湿布を張り替えようとしたところに、付け加えられた言葉。無防備な姿を任せてもらえることは何よりの信頼の顕れで、快斗には喜びしかなかった。けれど、他事に囚われ妙な態度をとったせいで、煩わしいことをさせてしまったと新一が勘違いするのは当然だった。

今の新一が縋れるのは快斗だけ。
こうやって頼みを聞き入れてもらうことで、自分自身の存在を受け入れてもらっていると確認しているのだろう。

垣間見えた揺らぐ視線、瞬間強張った体――――不安がらせてしまったことを反省しながら、快斗はお湯で温めたタオルをやさしく肌にあてる。
背面を終えると、腕を取り肩から落とされたまま絡んでいる上着を抜いた。手の中には心地よい重さが広がって、安心して預けてもらっていると如実に知れる。
しなやかに伸びた腕の、指先から丁寧に拭いていく。その細さによくぞ折れなかったと思う。肘の部分には案の定痣ができていたが、これだけで済んだことに快斗は誰にともなく感謝した。


「なぁ…あたまは?洗えないかな…?」
一通り体を拭き手当てを終えて、寝巻きを元通りに着せ直したところで告げられる。別段汗をかいていたわけではなかったが、それでもきれいにしてもらってすっきりしたのだろう。ついでとばかり新一は口にした。

「ちょっと無理だな。まだ傷口は完全にふさがってないから」
「でも、気持ちわるいし…」
「濡らせば治りが悪くなる。今日明日の辛抱だ」

正面から見つめられて、胸元のシャツを掴まれて。辛抱できなくなりそうなのは自分の方だと心のなかで茶々をいれながら、拒絶と受け取られないよう語調に気をつけて快斗は言った。
先ほど医師が処置をする時に見た傷口も、転落の凄まじさを充分に物語っていて、思わず息を詰めたくらい。しかも記憶を失う根拠となったものだから、いくら新一の願いでも聞けるわけがない。

「でも…」

奥歯にものが挟まったような、はっきりとしない物言いで顔を些か俯かせる様子に、快斗は言い方がまずかったのかと思ってしまう。そっと髪を梳くと、揺らいだ瞳と合った。

(あ、そっか。だからか)

きっと快斗が触れるから気になったのだろう。気持ち悪いのは新一ではなく、快斗のほうではないかと。
快斗に手を離されることは、今の新一にとってはとても怖いことなのだ。
昨夜にしてもそうだったと思う。
夕食を食べた後は頑として横にはならず、休息を欲している体を無視して起きていた。看病疲れの志保を早々に帰して、命を狙う輩から守るためにも一晩付き添うつもりでいた快斗がそのことを新一に伝えても。朝がくれば快斗は側にはいないのだと、記憶を失う前に新一が持っていた認識は潜在的に影響を及ぼしていた。
しっかりと手を握って、ここにいるのだと示して。
殊更、やさしく髪を梳いて。
そうして眠りに落ちた新一を、静かにベッドに横たえた。

側にいたくないと思われるような、どんな要因も新一は持ちたくないのだ。その割には、甘えてくるところが何ともかわいくて。快斗はついつい微笑んでしまう。

「へいき…?」
「何が?」

言わんとすることはわかったが、敢えて気付かないフリをした。
触れられることが好きだった新一だけど、好きだからこそ触れていたのは快斗だから。新一のためでなく、自分の心の赴くままであることを教えるために。

(…いいよな、このくらいは)

感情が不安定で自分自身の存在も覚束ない新一に、想いを押し付けて混乱させることはしたくなかったけれど。
快斗は、艶やかな黒髪にそっと唇を落とした。






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02.09.30  


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