漆黒の闇のなか、煌々と輝く白銀の月。
穏やか光の波長はとても心地よくて。
天空を駆る体は、大気と一体となったかのような錯覚。


このまま風に流されるままたゆたうてしまいたい。
そして、月の光になってしまえれば。


願ったままに、融けてゆく自我。
だが、強烈な何かが意識を呼び覚ます。


見下ろした地上にあったのは一条の光。
魂が揺さぶられる、何かを感じて。
どうしてもそこに降りずにはいられなくなる。


頭の片隅で、チカチカと点滅するシグナル。
イケナイと止める、本能の叫び。
それでも、引力に惹き付けられるように傍に寄らずにはいられない。


恐ろしくも美しい、蒼い煌き。


その蒼に己の姿を映してもらえるのならば、何を引き換えにしてもいいくらい魅せられて。
欲しくて欲しくてたまらなくて、思わずのばしてしまった手。
けれど。


『――――!』


耳に届いた声は月の波長よりも心地がいいのに。
発された言葉は理解できない、絶望の響きを持っていた。
蒼く鋭い光は、刃そのもの。
冷たい切っ先が、剥き出しの心の奥まで突き刺さって。
大気と同化するような、そんな心地のよい消失ではなく。
存在そのものがなかったかのような、自身の消失を感じる。



そして、そのままどこまでもどこまでも深淵へと堕ちてゆく――。







月の眠り







「……っ…!」
自分自身の叫び声で思わず飛び起きた快斗は、忙しなく肩を上下させて懸命に呼吸を繰り返す。
額にじっとりと滲んだ汗をぬぐうこともせずに、両の腕は動悸を激しく打つ胸を押さえている。
「……ま、た…か…」
ただの夢見が悪かっただけではすまされない状態。
大きく深呼吸をして落ち着きを取り戻すにつれ、ここ最近の自分は一体どうしてしまったのかと頭を傾げてしまう。
「どんな夢だったっけ…」
起きた瞬間にははっきりと覚えていたはずなのに、いつも呼吸を整えている間に頭の中に霞みがかかって微かな残滓しかなくなる。
覚えているのは、ただふたつ。
心に突き刺さった強烈な蒼と、胸に受けた激しい痛み。
「あ〜わけわかんねぇ…」
頭を振って理解できないことを追い払うと、ベッドから出る。
階下からの母の声に返事をしながら、快斗は手早くパジャマを脱ぎ捨てると制服に着替えた。



洗面所で洗った顔をタオルで拭きながら向かった食卓はいつもの朝とは違い、何事かと首を捻る。
「母さん、コレは一体?」
「あら、おはよう。快斗」
「おはよう、で?」
目の前の食卓には、朝から食べるには些か胃に重そうなご馳走の数々が並んでいる。しかもテーブルの中央には大きなラウンドケーキまであって、どうみても朝食ではなくパーティー料理にしか見えない。
「あなたのお誕生日のお祝いよ」
「……は?」
「もう母さん、はりきって作っちゃったわ!全部たべてね!」
年齢の割にはとても若く見える母親は、少女のようにはしゃぎながらにこやかな笑顔で期待いっぱいに見つめてくる。
「いや、あの…オレの誕生日は一週間先なんだけど…」
まさかこの母親が息子の誕生日を間違えるはずはないのにと些か困惑していると、パンと背中を叩かれた。
「やぁだ!当たり前じゃない!でも母さんの都合がつかないから先にお祝いするんじゃないの!」
「都合って?」
「盗一さんに逢いに行くのよ」
「…いつから?」
「今日の午後から」
きっぱりと告げる母に呆気にとられずにはいられないものの、唐突なのは今に始まったことではない。快斗はため息をつきたくなるのを堪えて、大人しくテーブルに着く。
"盗一さんに逢いに行く"先は、思い出のいっぱいつまったパリの街だ。だから、父の永眠場所に母がそこを選んでも、快斗は反対しなかった。
「でも、コレ全部食べるヒマはないんだけどさ。もう時間が時間だし」
「あらあら、遅刻なんていつものことでしょ。今日に限っていい子にならなくってもいいじゃないの」
にこにこと微笑みながら辛辣なことを言われると結構きくものだなと、差し出されたグラスを受け取りながら思っていると。そこへ並々とルビー色の液体が注がれる。
「あの、母さん。オレ、これから学校なんだけど」
「だって、お祝いなのよ?」
未成年であることはともかくとして、これから学校にいくのにアルコールの匂いをさせるのはマズイと思いつつも、浮かれている母に水を指すことはできなくて。
「…そうですね」
有難くいただくことにして、母のグラスにもワインを注いでやった。

「じゃあ、乾杯」
「18歳おめでとう。よくここまで育ってくれたわ」
「こちらこそ、今まで育ててくれてありがとう」
カチンとグラスを合わせて、日頃は中々言うことができない感謝の気持ちを言葉に込める。素直な気持ちは率直に伝わって、母は感慨深い瞳を向けてきた。
「本当に大きくなったのね。そうよね、もう18歳――大人だもの。結婚だってできるんだし」
「ハハ…なんか一足飛び過ぎるよ。まだ高校生なんだしさ」
「何言ってるの!私が盗一さんと結婚したのは18の誕生日よ。もういつしたっておかしくないじゃない…って、そっか。ごめんなさい、先走りすぎだわね…」
発破をかけるように意気込んでいたのもどこへやら、何かに思い当たった顔をすると風船がしぼんだように急に大人しくなる。
「母さん?」
「あ、そうそう!プレゼント!快斗にプレゼントがあるのよ!」
妙な態度に声をかけるが、マイペースな母は席をたつとばたばたとスリッパを鳴らしながら自室へと走っていった。


「ブレスレット?」
「ラッキーチャームよ!」
腕をしっかりと握って母が手首につけたものに、快斗はちょっとどころかかなりの抵抗を感じる。
銀の鎖に付いている三つの飾り、そのどれもがとってもかわいらしいもので。とても自分のような男が持つ代物ではない。
だが、せっかくの母のプレゼントを無碍にもできず、一応感謝をすることは忘れない。
「そっか、ありがとう。ま、受験生だしお守りは必要だよな」
「やだ、何言ってるの?勉強は自分の努力で何とかするものでしょ。これはそんなちゃちなことのためじゃないの!」
「へ、へぇ…」
むっとした顔で力説する母に押されて、とりあえず素直に受け止める。と、母はチャームを指差しながら説明を始める。
「この四つ葉は盗一さんもトレードマークにつかっていた通り幸運の象徴。こっちの月は願いが叶う――つまり、未来の成功。そして、コレが一番大切なダブルハート!」
ハートが二つ重なり合ってできている銀細工。それを見つめながら母はにっこりと笑う。
「コレはね、永遠の幸福と恋の成就を意味しているのよ!快斗にぴったりでしょ!」
「な、んで?」
気圧されながらも訊ねずにはいられない断言。すると母の顔はちょっぴり真面目な表情に引き締められた。
「母さん、ちゃんと知ってるんだから。一年前の誕生日に快斗が大失恋したの」
「………は?」
「ショックのせいでか、2,3日家にも帰ってこないし。ものすっごく落ち込んで途轍もなく暗くなるし」
「え、えっと…?」
「盗一さん直伝のポーカーフェイスで誤魔化していたけど、そんなの母さんには通用しないのよ。辛い思い出のせいで誕生日を迎えるのがとっても憂鬱だったでしょ?この一ヶ月ばかりも様子が変だし」
「へ、変…?」
「始終ぼおっとしていて、なんだか気が抜けたような感じで。そんなにいつまでも落ち込んでいないで新しい恋をみつけなさいな!」
「……………」
確かにここ数日は夢見のせいで調子が悪かったかもしれないが、のべつもなく母が並び立てたことはどれも快斗には心当たりのないことだ。
なにより、大失恋するほど誰かに心を惹かれたことなんて一度もないのに。
「このラッキチャームで幸運を呼び寄せるのよ!そして結婚相手を早く母さんに紹介してね!」
「あの…」
「あ、やだわ。先に恋人をみつけないとね!今年の誕生日はいいことがあるわよ!もしかしたら運良く恋人がみつかるかもしれないし。ほら、よく盗一さんが言ってたじゃない!誕生日は奇跡が起こる日だって!」
「ああ、まぁ…」
嗾けているのか励ましているのかよくわからない母だけれど、自分の心配で気を揉んでいるのは確かだろうから。快斗は伝えておいたほうがいいだろうと結論づけて口をひらく。
「あのさ。オレ、一応付き合ってる人がいるんだけど」
「え、ええっ?!ほんと?」
「ほんと」
「どんな子?美人?」
「ん、まあな」
「やだ!どうして早く教えてくれないの!ねぇ母さんに紹介してよ!」
「なんか大げさだな」
「だって、快斗が誰かと付き合うなんて!ずっと失恋を引き摺っているとばかりおもっていたのに!一体いつから付き合ってるの?」
畳み掛けてきいてくる母に苦笑しつつ、問いかけに応えようとして言葉につまる。
付き合っている人は確かにいる。
クラスメイトも幼馴染も、それを公認していて。
放課後も彼女といることがほとんどで。

でも、快斗は彼女と付き合い始めたのがいつなのか、思い出すことができなかった。



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04.06.21

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